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劇場版まどマギ追記 クレイジーサイコレズ


 凄く短いんだけど、ツイッターで呟くとネタバレになっちゃうのでここに。

 ほむらの「愛」について、よくクレイジーサイコレズとかネタにされてるけど自分なりに納得できたので。
 ほむらの「愛」は、単なるまどかに対する恋情ではなく「ループの末に積もった感情の堆積」だと考えるべきだろう。TV版でまどかが神になったのは「ループによって積もった因果の力」によってで、その逆に位置するものなのだ。
 つまりループによって積もった希望はまどかを神に、絶望がほむらを悪魔にしたということ。

 ただし、これはTV版のまどかを否定する描写である。「希望と絶望が相転移し続ける世界の中で、最終的にその法則を打ち破る突破点」として顕現したのがまど神であるからだ。もっと言えば、魔法少女についての物語の結末であったからだ。もしまど神を生んだ反作用として悪魔ほむらがあるなら、神さえもその法則に打ち破れなかったことになってしまう。つまりTV版の物語の全否定である。

 だから建前上は総集編の劇場版の続き、ということになってるんじゃないかなあ。
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君と彼女と彼女の恋。感想――エロゲーマーの倫理について――

 先日、K君に勧められてニトロプラスのエロゲー「君と彼女と彼女の恋。」をやったのでその感想を。ネタバレ全開なので注意。きっかけは、「現実侵食力」のあるゲームをやりたい、という話だった気がする。

 まず「君と彼女と彼女の彼女の恋」の基本的な流れについて説明する。エロゲーにしては珍しく、ほぼ一本道なので説明は簡単。

 まず、前提として。現代の学園を舞台にした作品で、ヒロインは天才系幼馴染キャラの曽根美冬と屋上で出会ったデンパ系キャラの向日アオイの二人。主人公の名前は須々木心一。基本的には「幼馴染の美冬と最近疎遠になっていた主人公が、『この世界はゲーム』『自分はエロゲーヒロインのイデア』だと信じるデンパのアオイを現実復帰させるため、美冬を巻き込んで友達になろうとする。その過程で美冬と主人公の仲もいい感じになっていく……」というストーリー。

 1週目はバッドエンド。文化祭の演劇で他の男とキスする、という美冬に主人公はなにも言ってやる事ができない。アオイは「この世界はゲーム。主人公と美冬がくっつけるようにアップデートする?」と聞くが、主人公は拒否する。文化祭以降また前のように疎遠になって終わり。

 2週目は美冬ルート。アオイにアップデートするよう頼むと(スマホで『カミサマ』=ゲームの外側に電話する)、1週目にはいなかった子猫が出現。子猫とアオイに勇気を貰った心一は、美冬の演劇にかけつけて告白をする。「永遠の愛」を美冬に誓ってエンド。

 3週目はアオイルート。2週目では心一を励ましたあとどこかに消えてしまったアオイを求めて奔走する主人公。「自分はゲームのキャラクターだから心一を愛したとしても消えてしまう」というアオイに、それでもいい、と心一は言う。アオイと結ばれてハッピーエンド……


















 と見せかけて。美冬が「貴方は前のルートで永遠の愛を私に誓ったのに、裏切るの?」と言って心一を撲殺。アオイの持っていた『カミサマ』=ゲームの外側にアクセスするためのスマホを手に入れて、世界をアップデートする。世界の外側を認識できるようになった美冬は、心一ではなく「プレイヤー」、画面の前の我々に対して愛を語りかけてくる。

 4週目。美冬によって書き換えられ、アオイの消えた世界のゲームを何周もしながらわずかに残ったアオイの痕跡をかき集めていく。子猫に導かれて美冬の持っていたスマホを奪い、見覚えのない番号にかけると再びアオイが主人公の前に現れる。美冬とアオイ、どちらかを選びエンディングへ――

 アオイルートでは、『エロゲーヒロインのイデア』に還元されたアオイとプレイヤーが、また別のエロゲーでの再会を誓う。

 美雪ルートでは、元の世界に戻った美雪が、心一と幼馴染として結ばれて終わる。


 というのがこの作品の基本的な流れになる。これを見ればわかるが、この作品、エロゲーメタである。メタメタである。ヒロインは二人とも「自分がエロゲのヒロインである」ということを自覚していて、美冬はその上で「主人公ではなくプレイヤー」の愛を求めてくる。約15分といういささか長い、プレイヤーがイタす時間を想定したと思われるエロシーンだとか、小ネタも多い。

 ただ、この作品のメタエロゲーというのは、単に小ネタにとどまらない。メタ○○というのは概して「そのジャンルというのはそもそもどういうものなのか」という疑問に端を発していることが多いが、この作品もその多分に洩れない。ここでようやくこの批評のメインテーマに至るのだが、僕はこの作品が「エロゲーとは、特に『攻略』とはどういうことか」を問いかけているのだと感じた。


 このゲームを物語のレベルで追うと、上記のように「アオイを取り戻す物語」ということになるだろう。しかし実際に感想サイトなどを見てみると、思った以上に美雪派が多い。それは、このゲームの根幹となるメタ部分が「主人公ではなくプレイヤーを攻略しようとする美雪」に集約されるからだ。

 アオイは物語の始め、「エロゲーヒロインのイデア」として登場する。様々なエロゲーに登場し、何度も主人公に攻略される存在。この世界をゲームだと信じ、「失敗してもロードすればいい」と考えている。そのアオイが心一への愛、という一回きりのものに目覚める、というのがこのゲームの物語だ。これに感動(つまり感情移入)できるかは人それぞれだが、まあ、わりとありがちなお話だと言えるだろう。

 対して美雪の方はどうだろうか。美雪は当初、主人公の幼馴染という役割を与えられている。しかし自らその役割を放棄し、主人公ではなくプレイヤーに対しての行動を行う。当然、物語の中にプレイヤーは登場しないのでその一つ上の次元の行動となる。これがこのゲームのエロゲーメタの根幹である。

 美雪は「攻略される側」ではなくプレイヤーと同じ「攻略する側」に立とうとする。だから「キャラクター」であるアオイを殺すことなど何でもない。ここには明確に恐怖がある。今まで一方的に「攻略する」という上下関係だったものが、「自分を攻略しろ」と対等の関係を求めてくるのだ。お前は二周目で永遠の愛を誓ったではないか、そのことに責任をとれ、と。

二周目:ヒロイン(攻略される側)→四周目:プレイヤー(責任を求める)

 ここにこのゲームの根幹がある、と言ってもいい。ネットのネタバレサイトなどで取り沙汰されるのも、専らこの部分だ。ここで重要なのは「攻略」した段階では美雪は「攻略される側」に過ぎなかったことだ。


 さて、ここで転じてアオイの方を見てみよう。先ほどの説明では、あくまで物語のレベルで「アオイという普遍的なキャラクターに過ぎなかったものが『この私』というものを獲得する」という、ちょびっツ的な話になっていた。しかしメタレベルでアオイを見ると話は違ってくる。

 アオイは始め、「ヒロインのイデア」として登場する。主人公以外の男も攻略し、失敗してもロードをしてやり直せばいい、と述べる様は我々エロゲープレイヤーの写し鏡として存在する。そのアオイが「この私」を獲得し、心一との愛を語るのは、プレイヤーがキャラクターのレベルに降りてきたことと同義である。

一周目:ヒロインのイデア(プレイヤーと同義)→三周目:ヒロイン(キャラクター)

 本来、プレイヤーであったはずのアオイは、キャラクターとなることで心一を「攻略」したことに責任を取ろうとするのである。こうしてみると、この二人のヒロインには見事な対象関係が描かれているのがわかる。そしてその軸に成るのが「攻略する側とされる側の逆転」というわけだ。

 この対象関係はエンディングにも適応される。どちらかを選ぶ、と書いたが、上記の二つのエンディングは同時に存在するとも言える。一周目でヒロインのイデアであったアオイは、キャラクターからイデアに戻り、プレイヤーと結ばれ。二周目でヒロインであった美雪はプレイヤーからヒロインに戻り、主人公と結ばれる。キャラクターの地平に降りて心一との愛を求めたアオイがプレイヤーと、プレイヤーの地平に上がりプレイヤーの愛を求めた美雪が主人公と結ばれるのはなんとも皮肉だ。

美雪
二周目:ヒロイン(攻略される側)→四周目:プレイヤー(プレイヤーを求める)→エンディング:ヒロイン(主人公と結ばれる)

アオイ
一周目:ヒロインのイデア(攻略する側)→三周目ヒロイン(主人公を求める)→エンディング:ヒロインのイデア(プレイヤー)と結ばれる

 さて、一方ではヒロインがプレイヤーに攻略の責任を求め、もう一方ではプレイヤーがキャラクターを攻略した責任を取ろうとする。ここまでくれば、最初に述べた「エロゲーとは、特に『攻略』とはどういうことか」を問いかけている、という言葉の意味はわかってもらえるだろう。

 また、美雪派が多い理由もわかる。このゲームは構造上、「美雪の攻略」について責任を取ることをプレイヤーに求めているのだ。しかし、我々は決してアオイと同じようにキャラクターの地平に降りて責任を取ることなど出来はしない。それはエンディングを見てもはっきりしている。

 きっと、美雪ルートを選んだプレイヤーも、決してエロゲーを辞め、美雪に服したりはしないだろう。それはある意味で「ヒロインのイデア」であるアオイを選んだことと同義である。更に言うなら、美雪を「プレイヤー=人間」として扱うならば、このゲームは「一人きりの人間」と「エロゲー全てのヒロイン」という二択を迫っている、とも言える。アオイを選ぶ、ということは過去・現在・未来にプレイしたエロゲー全てのヒロインに責任を取る、ということなのだ。しかし、それでも、「一人きりの人間」と「一回きりの恋愛」を求めないのであれば、エロゲーをプレイする意味などきっとないだろう。

 美雪を選べば、過去・現在・未来にプレイした/する全てのエロゲーヒロインを裏切ることになり、アオイを選べば「エロゲーヒロインと関係を結ぼうとする」という行為そのものを否定することになる。しかし、ここに現れた矛盾は、エロゲーが根本的に持っているものなのだ。

 我々はみな「一回きりの恋愛」を疑似体験するために「たくさんのエロゲー」をプレイする。そこに既にして矛盾が生じている。その矛盾をわかりやすい形で現出したのがアオイと美雪なのだ。


劇場版まどマギ感想――作者の権利について――


 いつもだったらツイッターでちょこちょこ呟いていればそれで満足してしまうのでこのブログは放置状態にあったわけだけど、いろいろ思うところがありすぎて消化不良を起こしたのでこうして言語化を試みている。

 初めにちょこっと言い訳すると、まどマギはTV版はちゃんと見たけど批評とか制作側のインタビューとかを追いかけているわけではないのでガチのファンからすると的はずれなことも多いかもしれない。あしからず。

 劇場版まどマギについては、前述の通り消化不良を起こしている。作画とか演出のここがすごい、みたいな話をするときりがないので一番きになったことだけ。僕はこの作品の一番凄いところは「二次創作的な想像力」を否定してるところなんじゃないか、と思った。

 この話の論点となるのは序盤の「平和な魔法少女たちの世界」である。初めてみるはずのあの世界に、僕たちは既視感を覚える。あれ、これってどこかでみたことがあるぞ、と。杏子とさやかが同棲してたり、シャルロッテとマミさんが仲よさげだったり。あの世界は二次創作的なものの逆輸入によって成り立っている、と感じた。

 杏子とさやかは100歩譲ってTV版でもカップリングだとしても、マミとシャルロッテの絡みはグッズ展開から逆輸入されたものである、と虚淵が明言している。(パンフレット)

 そもそもの基底にある「平和な魔法少女の世界」というのもいかにも二次創作的である。問題はこの世界が、主人公であるほむらによって「まどかの決意の否定」だとして明確に拒絶されていることだ。平和な物語を想像するのは簡単だけど、そうじゃないからこの話には意味があるんですよ、と。

 まどか☆マギカという作品は、いわば「魔法少女もの」といわれる全般の作品、魔法少女のイデアの裏側を描いた作品だ。戦ったら傷つく、奇跡には代償がある、という魔法少女の裏側を描いている。それを見て絶賛したファンが、そこからまた表側である普通の魔法少女モノとしてのまどマギ二次創作を再生産し続けることの意味、というのは前のキルミーベイベー批評と同じである。ただ、キルミーベイベーが徹底的に表であり続けることで裏側を想起させるのとは逆に、まどマギは先に裏を描くことで表を想起させようとする。我々はそこにある物語を読むだけでなく、そこからあったはずの無数の物語を読む(むしろ作る)という行為をこそ楽しむわけだ。テクスト論的な「読むごとに違う物語が現れる」という考え方に近いかもしれない。

 個人的にはTV版の最後は、普通の魔法少女モノへと繋がったのだ、と思っていた。魔獣という人間を襲う怪物と戦う存在である魔法少女、最後に待っているのは救済、使い魔ポジであるQBとそれなりに仲のよさそうなほむら。まどマギ本編のどこか未来都市じみた見滝原から、高層ビルが立ち並ぶ現実としての見滝原へ。けれど、劇場版という形でもう一度まどマギの物語が紡がれることになったとき、再びこの作品は魔法少女の裏側に回る必要性に迫られたわけだ。その際、一度我々の中に形作られた”表側”の物語をどう処理するか、という問題が生まれた。そして、結果としてそれは叩き潰されることになったというわけだ。

 そもそも、ループものの利点の一つとして二次創作の容易さ、というのは確実にあった。同時期のループもの作品であるシュタインズ・ゲートの比翼恋理のダーリンなどはその利点を最大限に活かしたものであったはずだ。しかしこの作品では、「酷薄な世界の裏側にありえたかもしれない平和な世界」を勝手に作り出すことを明確に拒否している。世界はこの残酷な世界ただひとつであり、他には存在しない、と。

 そして、最後のほむらの悪魔化。あくまで個人的な意見に過ぎないが、あのオチこそ物語を作者の側に取り戻そうとする意志の結晶だ、と僕は思った。

 そもそも、QBが黒幕だ、という時点でTV版の「まどかの決意によって生まれた新しい世界」の否定である。彼女の犠牲によって魔法少女魔女化システムは瓦解し、「あなたたちとの関係も結構険悪だったし」と過去形で語られるように、魔法少女とインキュベーターは協力関係になったのだから。ほむらの悪魔化も同様で、「まどかの愛した世界を守り続ける」というTV版のほむらの決意の明確な否定だ。「ほむらの意志はまどかを守りたいで一貫している」という意見もあるだろうが、それでもTV版はほむらの「世界を守る」という決意に至るまでの過程を描いた物語であるのではないか、と僕は思う。

 これほどまでに「公式」の物語を否定する話を描くのは、二次創作には不可能なのではないか、と思う。もちろん、物理的に不可能なわけではないけれど……仮にまどマギの二次創作としてこの話が存在するとしたら、それはどこか歪なものになってしまうだろう。二次創作とはあくまで「公式」の物語を受容した上で存在するものだからだ。

 以前、このブログに書いたキルミーベイベー論では、テクスト論的な考えに基づいて、二次創作全盛、一億総作家時代においての日常系作品の優位性について述べた。TV版のまどマギは、日常系でこそないもののそれと同じく、受け手の想像力を喚起し、それぞれに新しい物語を紡がせる力を持っていたと思う。
 無責任に言ってしまえば、それがゼロ年代という時代であり、その決算としてのまどか☆マギカという作品の在り方だったわけだ。しかしこの劇場版まどか☆マギカはさらにその一歩先を行く、作者の持つ絶対的な力を再認識させる作品として在るのではないだろうか。
 

ゆゆ式の魅力の続き~あずまんが生まれのゆゆ式育ち~

ゆゆ式

 『ゆゆ式』で己の「キャラ」に一番自覚的なのはゆずこである。上の画像を見てほしい。左右を見比べるとわかるが、「ゆずこは本当は蟹なんて食べていない」のである!
 そもそも眼鏡をかけていない理由からして(本当は頭がいいのに)「頭が良さそうに見られるのが嫌だ」というのが面白い。自分をキャラとして認識しているし、本当のことより「どうすれば面白くなるか」ということが優先されているわけだ。

 日常系は、未だ私小説の呪縛から逃れることの出来ない純文学の先にいく概念だと思う。四コマでは、長ったらしい主人公のモノローグは出てこない。「私」の考えより場の空気が優先される。
 私小説は「私」の内面を徹底的に研究し、描写しようとした。しかし、本来的に西洋の「個人」という概念を自ら獲得したわけではない日本人には「空気」によるコミュニケーションの方が性に合っているのではないか。
 言ってみれば「空気」とは自意識の省略である。例えば「殴られる→怒る」という感情も、「殴られる→身の危険なので反撃しなければならない→興奮状態になったほうがいい」というプロセスの省略で、それと似たようなことがコミュニケーションの場で起こっていると考えるべきだろう。(この辺は伊藤計劃『ハーモニー』なんかで感じたこと。〉
 自分が本当はどう思っているか、ということよりも状況に対する反応としてのコミュニケーションである。コミニュケーションを、個人間での情報の伝達ではなく集団における同化の一環として捉えるわけだ。

 こうしたコミュニケーションの形態が、「四コマ」というコンテンツによって私たちの間に自然と浸透しているのではないか、と私は考えた。読者の存在を意識した「キャラ」としての振る舞いを、私たちは知らず知らずのうちに現実へと持ち込んではいないだろうか?
 K君に『ゆゆ式』を読ませてみたところ、「俺たちの会話を美少女化した感じ」との感想を頂いた。「あずまんが」世代の私たちは、日常がパッケージングされ、コンテンツになることを知った。この「コンテンツ化された日常」という現実の流れを反映したのが『ゆゆ式』だと考える。


追記 あずまんが大王のアンソロジー、『大阪万博』で篠房六郎が描いた漫画には、より顕著な形で「あずまんがごっこをする私たち」というものが描かれていた。こちらは画像はないが、是非読んでみてほしい。

ゆゆ式の魅力~日常系とはなにか~

 さて、前回の記事では
・文学の役目の一つとして、「世界や自分をどう認識するか」ということを考えだし、広めることがあること
・現在、その広める方の役目は漫画などのサブカルチャーが担っていること
 を話した。

 今日は三上小又『ゆゆ式』を例に上げ、実際に我々がどのように四コマ漫画に意識を規定されているかについてはなそうと思う。
 『ゆゆ式』の画期的なところは、日常を四コマの形に切り出すのではなく、四コマの形式を意識した上で日常を送っていることである。彼女たちには「オチ」の概念があるし、例えばあえて沈黙による間を作ったりといったコマ割りの概念らしきものがある。

ゆゆ式2

 つまり、彼女たちは自分たちの世界を「四コマ」というフィクションとして捉えている。もちろん、これだけでは、四コマというフィクション世界におけるメタギャグにしかならないだろう。しかし、『ゆゆ式』を読んだ上で私たちが現実に交わす会話を考えてみると、時に『ゆゆ式』のように「読者」へ向けた漫才のようになっていることはないだろうか?

 『ゆゆ式』へと繋がる作品として、あずまきよひこ『あずまんが大王』が挙げられるだろう。あずまんがの世界では、キャラクターたちが「やらなきゃいけない気がして」、つまり作品の都合上、自分のキャラを守るために行動に出ることがある。この時、キャラクターたちを動かしているのは作者=神の意志である。ということはつまり、現実には起こり得ない出来事、フィクションでの出来事だ。
 
あずまんが

 しかし『ゆゆ式』では、キャラクターたちが自発的に自分の「キャラ」を守るために動く。『ゆゆ式』における会話は、現実に置き換えてみてもなんら遜色ない。
 こうした『ゆゆ式』のキャラ意識が『あずまんが大王』を下敷きにしているとしたとき、同じ意識変化が私たちにも起こっている、と考えられる。
 『あずまんが大王』によって(他にもTV文化とかいろいろあるだろう。要検証)「キャラ」という概念の存在を意識した私たちは、実際に「キャラ的」な行動を取るようになっていく。その過程を描いたのが『ゆゆ式』なのである。

 画像がでかいので一旦切ります。


追記 キャラ、と一口に言っているが、キャラクター化の概念についてもう少し補足が必要だろう。前回の記事でも取り上げた保坂和志『草の上の朝食』では、「未来」とは「現在の習慣」によって決定される、としている。つまり、いつも同じような言動を繰り返すことで、そこに「キャラ」が生まれ、その人の先の行動まで規定してしまう、ということだ。
プロフィール

とらいち

Author:とらいち
小説・漫画の感想ブログです。
フィギュア・ガンプラの写真なんかもあげるかも。
Twitterアカウントは@toragikoです。

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