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ガンダムUC ep7「虹の彼方に」感想 アンチ・ヒーロー好き必見の作品


 今日、新宿ピカデリーでガンダムUC見てきました。久々にTwitterじゃなくブログで長文感想とか書いてみようと思います。ネタバレ全開なので注意

 ep7、個人的には凄くよかったと思う。以下、思ったこと、一緒に見に行った友人と話したことなんかを書いていく。小説版も読んでないにわかの意見なんであしからず。

 今回、ネタバレは出来る限り回避していたが、流石に「リディ少尉がマリーダさんを殺す」ということは知ってしまっていた。(小説があるから当然だけど)で、視聴前の不安として「リディさんを(俺が)許せるかなー」というのがあった。

 いや、前からリディ少尉が嫌いだったかというとそんなことはなくて、むしろリディ少尉大好きだった。属性で言っても主人公にコンプレックスを抱いてるサブキャラ(ダイ大のポップとか)萌えだし、そもそもバナージがあんまり好きになれないしで。

 そもそもバナージが好きって人はなんなんだ? とさえ思ってた。相手の立場に立って物事を考えられないし、(ep3の「このわからずやー!」とか。どっちがだよ。「連邦の理屈ばかり言うな」というマリーダさんの言葉は至極最も)自分が人を殺したことを受け入れられず言い訳するし(ep2ね)、かといって大事な場面で「撃てませーん!」で咎をリディさんに押し付けるし(ep4)。要するにガキなんですよね。

 でもそんなガキがこの作品の世界では皆に好かれまくり、いろんなものを受け取るわけだ。父親のカーディアス・ビストはともかく、エコーズのダグザさん、ネオ・ジオンのギルモアさん、艦長、マリーダさん、それからもちろんオードリー。リディ少尉がコンプレックス抱くのも当然ですよね。判官贔屓の血が騒ぐ騒ぐ。というわけでガンダムUCはリディ少尉を応援しながら見てました。

 でも、ep7ではリディ少尉がマリーダさんを殺すらしい。マリーダさんっていうのは「戦後のゴタゴタの犠牲者トラウマムービー」たるUCの象徴みたいな人で、この人を殺す、というお鉢が回るということはこの世界の諸悪を担うことになるんじゃないかと。種死のシンみたいに複数主人公の一人にすべてをおっ被せてもう一人を大正義にするスタイルなのかと。そういう不安でした。

 で、実際に見てみると。リディ少尉は確かにマリーダさんを殺すけど、それは全然悲劇ではなかった。マリーダさんは確かに死んだけれど、その死は決して悲惨なだけのものではなく、厳かですらあった。(これについては友人と見解は一致したけど、是非は別れた。友人は「死はもっと悲痛に描かれるべき」と言っていたが僕は「死は厳かであってもいい」と思った。この話はまた別の記事で。)

 その後のシーンでリディ少尉が言うように、彼はマリーダさんの名前も知らないわけです。でも、彼女の死のおかげで彼は自分を取り戻すことが出来た。ガンダムで「強化人間と戦闘の中で分かり合う」というシチュエーションといえばZのフォウ・ムラサメとか種死のステラ・ルーシェなんかがありますよね。カミーユもシンも最終的にはおかしくなっちゃうわけだけど、それはZや種死が「戦争の中で人間性を奪われていく」物語だからじゃないかなーと思うんです。で、それはリディ少尉にも共通している。

 リディ少尉って人は、自分の家のこと(=箱の中身)を知って、それをオードリーに一緒に背負って欲しかったけど拒否されて、「俺を一人にしないでくれ」って言っておかしくなっちゃったわけで、それって箱の中身をオードリーと共に正しく使ったバナージのちょうど逆なんですよね。で、「俺を一人にしないでくれ」って言ったリディ少尉にマリーダさんはむしろ自らその身を差し出す。

 ジョジョの奇妙な冒険で「ジョジョは受け継いだ人間、ディオは奪う人間」なんて話があるけど、UCにおいて戦争の中で「バナージは受け取る人間、リディは奪われる人間」なわけですよ。もうリディさん発狂不可避。(ep4でバナージの代わりにロニさんを殺すという咎も押し付けられたし。個人的にはep7でその回想があってもよかった)

 で、奪われ続けたリディ少尉がどうなったかというと、自分が奪う側に回ろうとした。マリーダさんの命を奪った。でも、それは単に奪ったわけではなく、マリーダさんに差し出されたわけで。この時初めて、彼は受け取る側になれたんだと思うんですよ。それで踏みとどまることができた。Zや種死ではクワトロやアスランがはけ口になるべきポジションなわけですが、こいつらが本当にダメだった。

 やっぱり何より大事なのは母性ですよ。マリーダさんは私の母になってくれるかもしれなかった女性だ!

 今日はここまで。明日は逆シャアとの絡みについて。

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ペルソナ4感想 マッチョな鳴神くん

 P4G全クリしました。面白かった。ペルソナシリーズをやるのは実は初めてだったけど、主人公のペルソナって女神転生と同じ悪魔たちなのね。
 戦闘も女神転生とほぼ一緒、弱点を攻撃してればまず勝てる。個人的にはシミュレーション要素があるからデビサバが一番好きかもしれない。
 キャラで言ったら花村が好きです。っていうか花千枝のカプ萌えですね。

 僕自身は凄いこのゲーム好きなんだけど、合わない人には合わないだろうな、って思った。今日はあえてその合わない人目線の感想を書いてみようと思う。


 まず、このゲーム、すごいマッチョ。マッチョ過ぎて吐きそう。精神分析の暴力とか、そういうものに満ち満ちている。まあタイトルが「ペルソナ」だし、ユング心理学が元になってるらしいのでそれも当然だけど。

 このゲームのメインキャラクターたちは、皆心に傷を持っている。それがシャドウとして形になり、本人を襲う。それを打ち破り、受け入れることでシャドウと戦うための力であるペルソナを手に入れる、というのが基本的なストーリー。
 まず「心の傷が具現化して襲い掛かってくる」というのが凄い。過去のたった一つの出来事がその人の人格を決定しているし、それは乗り越えるべきものとして描かれる。人の心ってもっといろんなものが複雑に絡み合ってるし、過去のトラウマもあるときには個性として顕れたりするもんなんじゃないのかなあ。

 それを「お前らは病気だから治療してやる」とばかりに打倒していく主人公。特に完二のエピソードがやばかった。「お前がホモなのは女を怖がっているだけだ、正気に戻れ」と。そして実際シャドウを倒した完二はヘテロになっていく。そこに「社会に認められるため男になりたい」という願望を持っていた直人を宛がうという完璧さ。直人のシャドウが男根の象徴たるスーパーロボットだったことからして確信犯めいたものを感じる。

 このゲームの主人公は6股モテモテとよく言われるけど、ただのハーレムものより圧倒的にたちが悪いのはそれがそういう「治療」の結果として作られていくことだと思う。社会に馴染めない病気の女の子を治療してあげることで好かれる、って90年代のストーリーだよ!

 ラスボスからも90年代臭を感じる。「人の深層にある、絶望を望む無意識の集合(集合的無意識)」って……。正直、「またアトラスお得意のアレか……」って感じた。初めて見たときは目新しかったけど。

 ラスボス戦を経て思ったのは、「女神転生が世界の在り方考でペルソナは自分探しの物語なんだなあ」ってことだった。共にセカイ系の根幹を成す二つの軸である。セカイ系とは「自分とはなにか、世界とはなにか」を考える青年哲学から派生したと思っているから。それらを二つの作品に分けたのが女神転生とペルソナシリーズなのかな、と思った。良くも悪くもその初期コンセプトからブレていないから、こんな90年代臭漂うゲームが出来たのでは。

 今はアニメの再放送見てます。


ガンダム00感想~「撃ちたくないんだー!」について~

 さて、サジの主人公性についての話だが、これは刹那の主人公性の話でもある。

 個人的な話になるが、僕はガンダムの「撃ちたくないんだー」とか言いつつバンバン撃つ主人公が苦手だった。撃ちたくなければ撃たなければいい、とさえ思っていた。
 しかし00(特に一期)では、刹那は紛争根絶のため、迷いなく戦う。迷うことは市民であるサジに託されている。このW主人公制はうまいと思った。ファーストガンダムが富野の学生運動経験を元にしているという話からすれば、活動家とノンポリといったところだろうか。
 しかし二期では、ノンポリであったはずのサジは争いに巻き込まれていく。これは「撃ちたくない」と思いつつ、撃たざるを得ないという従来のガンダム主人公の役割だといえる。サジは、「戦いたくない」「自分には関係ない」と言い続けた結果、カタロンの人々を犠牲にしてしまう。撃ちたくないからといって本当に撃たなければどうなるのか、ということが突きつけられている。そしてサジは自らオーライザーに乗る、という選択をする。

 一方、刹那はどうだろうか?僕は、「俺がガンダムだ」という台詞にはそれほど違和感は覚えなかった。むしろ、刹那のガンダムを信仰する姿勢のほうが気になった。それは根本的に神を信じて戦っていた少年兵時代となにも変わらないのではないか?と思ったのだ。現にソレスタル・ビーイングとしての戦いを通じて多くの人の生命を奪い続けている。サジは戦わないが為に犠牲を生む。刹那は戦うが為に犠牲を生む。進むも地獄、止まるも地獄である。
 しかし、二期になると刹那は「俺がガンダムだ」とは言わなくなる。そのかわりに「俺は変わる」と盛んに口にするようになる。そして二期のラストでイノベーター、劇場版でELSに本当に変わってしまう。「俺は変わる」というのは、ガンダム=神に導かれるままに戦ってきた自分の存在を改めて見つめなおしている、ということだと思われる。そして劇場版の最後ではマリナ・イスマイールと同じ立場に立ち、争いを否定するようになる。この迷うサジと迷わない刹那の変化の対比は非常に美しい。

 劇場版についての話もしよう。二期で刹那はアロウズというファーストにおける連邦、あるいはZのティターンズのような「地球軍」とでもいうべき存在を倒す。しかし00ではさらにその先、地球が統一された後にまで話が進んでいく。地球が統一されたのだから、話がその外にいくのは至極当然といえる。
 だから、僕としては宇宙人が登場することも、もっといえばそれが戦いではなく会話による和解であることも、言葉の通じない(人間の延長ではない)本物のストレンジャーと和解する方法が「花」であったこともすんなり受け入れられた。
 メタル刹那と揶揄されるラストについても同様である。そもそも、二期のラストでは「ソレスタル・ビーイングはいずれ裁きを受ける」という話がなくなってしまう。紛争を根絶するために戦い続け、その結果人間でないものになるところまで行ってしまう、というのは妥当な落とし所のように感じた。「おばあちゃんになったマリナ・イスマイールがかわいそう」と言っている人は、少々肉欲に囚われすぎなのではないだろうか。マリナが若返ればよかった、と言っている人はその後、二人が子作りすることでも望んでいるとしか思えない。あの二人は「争いを否定し、平和を望む」という同じ目的を志した同志であり、その意味で、言ってしまえばマリナの聖人さは最初からメタル刹那のような、人間を超越したものだったと言える。その二人が生きてお互いの意志を確認しあえる、というのは肉体の状態など関係ないハッピーエンドではないか。
 むしろ苦言を呈するならば、「花」やメタル刹那は奇抜な発想ではなく、むしろ皆が納得できる最大公約数的なオチでしかなかったことだろう。ガンダムを越えた先を描くはずだったのに、一昔前のSFのようなありふれたオチになってしまっている。一口に「ガンダムの先」と言っても僕にはとても想像できないし、それはガンダムを越えてSF界の新たな一歩にさえなるような、難しいものかもしれないが、そこまで到達して欲しかったというのは高望みが過ぎるだろうか。


 ここまで書いたのは非ガノタとしての意見である。00に対する批判として(特に劇場版などで)「これはガンダムではない」というものをよく目にする。そう言われればその通りなのかもしれないが、僕は素直にこの作品は面白い、と思った。誤解を恐れずに言ってしまえば、「ガンダムじゃないから駄作!」と言っている人は、新しい価値観を受け入れ、人の気持ちがわかるニュータイプというものを描き続けてきた富野のガンダムをも否定することになるのではないだろうか。
 好き勝手言ってるのでお叱りがあれば甘んじて受け入れます。なにかあればコメントかツイッターにでも。

ガンダム00感想~現実の世界からガンダムの世界へ~

 先日、お正月特番でガンダム00一挙放送をやってたので見てみた。この記事にはその感想を書こうと思う。予め断っておくと、ガンダムはファースト三部作と新約Zを見ただけなので、あんまり詳しくはない。でも00が面白かったから遡って見てみたいなーとは思ってます。

ガンダム00の一番の特徴は、やっぱり一期と二期の構成の違いだと思う。ネットなどで評判を見てみても、「00は一期まで」という意見が多かった。でも僕は、多少の問題をはらみながらも、やっぱり二期は必要だったと思う。
 そもそも、ガンダム00の一期とはどういう役割を持っていたか。僕は、現在我々の暮らす「普通の世界」が「ガンダム的な世界」に移行していく過程のように感じた。例を挙げると、ソレスタル・ビーイングが持ち込むまでこの世界にはGN粒子(=ミノフスキー粒子)が存在しない。となるとモビルスーツの有用性も低くなるはずだが、その辺は既存の兵器(イナクト、フラッグは戦闘機、ティエレンは戦車)の発展系として描くことで設定の辻褄を併せている。また、イノベーター(=ニュータイプ)もラストまで出てこないし、テレパシーを使えるのも超兵(=強化人間)であるアレルヤとソーマだけである。なにより、この世界では地球が一つにまとまっておらず、(三つにまで統一されてはいるが)国同士が紛争を続けている。
 つまり、ガンダム00とは、一期で我々の住むこの世界がガンダム的な世界になるまでを、二期でガンダム的な世界を、そして劇場版でガンダムの先の世界を描いたのではないだろうか?

 もちろん、二期には批判されて然るべき点はいくつかある。まず、「ガンダム的な」世界を描くはず(前述のことが正しければ、だが)だったのに、アロウズという悪と正義のソレスタル・ビーイングという単純な善悪構造になってしまっていることだ。一期では、それぞれの陣営がそれぞれの正義をぶつけあっていて、それが物語に深みを出していた。もちろん、連邦とジオンの争いが東西冷戦を下敷きにしていて、今の時代にそれが合わないというのもわかるのだが。
 また、二期になると恋愛要素が増えてきて、登場人物の戦う理由が非常に矮小化されたものになってしまっている。一期はティエリアが「君はガンダムマイスターに相応しくない」などと言い出す度にイライラしていたものだが、二期では「相応しくないって言ってくれー!」と懇願したくなった。


しかし一期から二期への変化で特筆すべきことは、サジの扱いの変化であろう。一期では一般市民であったサジは、二期では争いに巻き込まれ、ソレスタル・ビーイングのメンバーとして戦うことになる。2ちゃんなどで「二期のサジは存在する意味がわからん」などと言われているのも目にした。しかし僕はこのサジこそ二期の主人公であると思う。※一応補足しておくと、二期でサジがソレスタル・ビーイング入りしたことで場面が艦内ばかりになり、市井の人の目線がなくなったことは善悪二極化に拍車をかけている、とは僕も思う。

とりあえずここまで。

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とらいち

Author:とらいち
小説・漫画の感想ブログです。
フィギュア・ガンプラの写真なんかもあげるかも。
Twitterアカウントは@toragikoです。

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