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キルミーベイベーの魅力~初級の続き・アニメの魅力編~

スゴいぞ山川監督!

 今回はキルミーベイベーのアニメの魅力について語っていく。前回の記事を簡単にまとめると

・キルミーベイベーの原作は意識して物語性を省いている。それによって読者が自分の中で物語を膨らませやすいようになっている
・キルミーベイベーのアニメはその原作の力に負け、最終回で物語ってしまっている

 ということだ。しかしこの作品を30分アニメにするにあたって、その決断は英断だったといえるだろう。この記事ではアニメ版キルミーベイベーに散見される物語性をあげていこうと思う。

 まず、第一話冒頭の「ぐーてんもーげん!わたし、折部やすな!たぶん高校生!」という台詞から考えてみたい。実はここにはかなりの情報が詰め込まれている。まず、この作品がやすなの一人称視点によるというものだということがわかる。アニメではモブキャラクターは(予算の兼ね合いもあるだろうが)棒人形で描かれている。これがやすなの認識だとすれば、やすなにとってソーニャ以外の人間はほぼ見えていないということに他ならない。これは原作の表紙にも言えることだ。
kill08.jpg
 この緑一色の表紙絵は、二人しかいない世界を表している。そしてアニメでは、それがやすなの意識によるものだということが最初に提示されているのだ。
 また、「たぶん高校生」という部分であるが、「高校生」というキャラクターとしてのレッテルを、「たぶん」によって曖昧にしている。しかしやすなは高校生に違いない。本当に「たぶん」なのはソーニャが殺し屋である、という方ではないか?といったことも考えられる。

 また、キルミーベイベーはしばしば「30分は長かった」「5分アニメにすればよかった」と言われることがある。しかし僕は30分アニメにしたのは正解だったと思っている。

 まず、アニメでは最終話を除く12話が、春夏秋冬の季節ごとに――もっというなら、1話が作品内の1ヶ月になるように配置されているのも興味深い。だいたい、原作の3~4話をアニメの1話にまとめているのだが、そのとき季節ごとに並び替えているのだ。これにより、アニメには原作にはなかった「時間の流れ」が生まれている。

 また、しばしば「尺稼ぎ」であると非難される話の切れ間に挿入される一枚絵であるが、これは原作のヒド目のオチを和らげる役目を持っている。例えば、催眠ガスで眠ってしまったやすなを公園に放置する回にはおとまり会の絵を、やすなを汚いプールに突き落とす回には泉の女神ネタを、といった具合である。
 帰り道のシーンにしても同様で、例えばパペットの回ではソーニャがやすなの作ってきた人形の首をもぎ取ってしまう。4コマであればそこでオチ、で終りなのだが、時間の流れのあるアニメではそう上手く区切りがつけられず、ともすればソーニャを酷い奴だと感じてしまう。しかしその後の帰り道のシーンで、二人は仲良く一緒に帰っている。あまつさえやすなの手には修理された人形が握られているのだ。やすなが人形を修理する間、帰るのを待ってあげるソーニャを想像すると胸が暖かくなるではないか。

large.jpeg

 帰り道のシーンの暖かさは、このポスターに集約されている。こうしてみると、あたかもキルミーベイベーが「いろいろあるけど、帰り道は一緒だよ」に集約される作品であるかのようである。これをみて、帰り道のあのBGMを思い出す人も多いのではないだろうか。
 しかし、実は原作ではこの「一緒に帰る」シーンは影も形も存在しない。全くのアニメオリジナルなのである。キルミーベイベーのアニメは「オリジナル要素が少なく、比較的原作に忠実である」という評価がなされているが、実は作品の根幹から変えられているのだ。

 前回、キルミーベイベーの原作は「物語」を捨象した純粋な日常だけの作品であると述べた。しかし、あまりにも純粋すぎる「日常」だけの作品は逆にその日常性を感じることが難しくなる。原作を読んで読者が受け取るものは単にギャグ漫画としてのキルミーベイベーであろう。
 その原作に少しの物語性――時間の流れと言い換えても良い――を付け加えることによってよりその「日常性」を浮き彫りにさせたアニメは、やはり名作であると言わざるをえない。
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キルミーベイベーの魅力~初級編~

 さて、キルミーベイベーの魅力とはなんだろうか。とても一度では語りきれないが、とりあえず今日は初級編ということでキルミーを見たことがない人向けに書いてみようと思う。
 とはいえ、ここで語ることは僕のキルミーの見方の基本となっているので、熱心なキルミストの皆さんにもぜひ見ていって欲しい。

 キルミーベイベーは「殺し屋」の出てくる「日常アニメ」である。殺し屋と日常、この二つがキルミーを語るに当たって重要になってくる。簡単にあらすじを説明すれば、普通の女子高生、折部やすながなぜか普通に高校に通っている殺し屋の女の子、ソーニャにちょっかいを出してはドツかれる、という漫才アニメだ。登場人物はやすなとソーニャ、あとソーニャの同僚の忍者あぎりの三人しかいない。

 実は僕は日常アニメというのがニガテだった。"大きな物語"が大好きで、コナンで黒の組織絡みの回だけあとで見るような物語信者だった。だから、そもそも物語が存在しない日常系アニメのなにが面白いのかよくわからなかった。そして、「殺し屋」である。ソーニャは殺し屋という設定だが、実際には殺し屋らしいことはほとんどしない。たまーに他の組織からの刺客が登場するくらいである。これでは設定の持ち腐れじゃないか。初めはそう思った。

 しかし、最終回を見てその評価は大きく変わった。最終回では、それまでずっとただどつき漫才を続けていたやすなが、「殺し屋なんてやってたら、一緒に遊べなくなっちゃうよ!」と初めてシリアスな面を見せる。この回は結構評判が高いし、実際僕も面白いと思った。しかし、実はこの回はアニメオリジナルなのだという。原作では、やすなはソーニャを止めることが出来ずに、ソーニャは(ギャグ的にではあるが)仕事をやり遂げてしまう。

 最終回を見終わった僕は、ピクシブや2chなんかで絵やSSを見てみた。そこには、ほのぼのとした日常を描いたアニメに反して、その裏側にある非日常、あるいは残酷さなんかを描いたものが多かった。例えば、"実は"ソーニャがやすなを殺す為にやってきた、とか"実は"やすなは別の組織の殺し屋でソーニャを殺してしまう、といった類のものだ。

 あまりにも安穏とした日常の裏側に、僕たちはそうした非日常的なものを見てしまう。そして、原作の日常は、そうした"怖い"ものを意識的に徹底して省いたものの上に成り立っている。そのことに気づいたのだ。事実、公式アンソロジーではそうした、原作から捨象されている"怖い"ものがあったらどうなるか、といったテーマでまとめられている(アンソロについては別の記事でも取り上げる予定)

 原作から捨象されている要素は、"怖い"要素だけではない。原作ではソーニャは一度もやすなに対してデレたことはない。恋愛、という要素もまた、物語の時間を進めるものであり、その意味で日常の均衡を壊してしまうものなのだ。"人間関係の変化”こそ物語の核である、という考え方もあるくらいである。もちろん、二次創作では”怖い”ものの他に、恋愛要素を全面に押し出したものも多かった。

 日常アニメは、少なくともキルミーベイベーは、物語の力を否定しているのではない。むしろその力は受け手である我々に、豊かに託されているのだ。
※これは、インターネットの普及による"一億総作家時代"の到来と無関係ではないと思うが、この辺りは慎重な議論が必要だろう。
 キルミーベイベーの物語性の無さは、むしろ受け手が物語を作り出すときの妨げとならないよう意識されたものなのだ。それがはっきりしたのがアニメにおける最終回である。

あの最終回は、そこまで比較的原作に忠実だったアニメ制作側が、「原作の物語らせる力」に負けてしまった瞬間だと僕は思った。

 しかしそれは敗北ではなく、キルミーベイベーの原作という種、特に「殺し屋」という設定の種が花を開いた瞬間だともいえるだろう。

長くなってきたので次に続きます。

僕とキルミーの出会い

「どしたのわさわさ?」彼女が私に尋ねた。それは形而上的な意味と、そしてほんのわずかな暴力性を孕んだ言葉だった。やれやれ、私はその時ナーミンだった。疑いようもないほど、完璧なナーミンだった。

 僕がキルミーベイベーと出会ったのは、ある冬の寒い日だった。その日、僕はサークルの後輩と五時間ほど麻雀を打ったあとラーメンを食べにいくという、いつものことながらモラトリアムの極みみたいなだらけきったルーティンをこなしていた。
 そのときの面子に皆からKと呼ばれている男がいた。彼は顔はなかなか悪くないのに口を開けば現代アートとヒップホップという、いわゆるオタクと呼ばれている僕らにさえちょっと近寄りがたいジャンルの話を延々とするので少し浮いているような男だった。
 僕らのサークルは現代文学研究会といって、大仰な名前はついているけれど実際には記号と象徴の区別さえつかないようなアニメばっかり見ているオタクの集まりで、だからアニメは全く見ないという彼に僕は(というより僕らは、だと思う)実は一目置いていて、現代アートの芸術性と舞城王太郎の関係性を熱心に語る姿には一種の憧憬を抱いてさえいた。

 だから、そんな彼が唐突に――彼の話はいつでも唐突ではあるのだが――アニメの、しかも普通の日常アニメの魅力を語り出したとき、僕は身勝手ながら少々落胆した。その落胆というのは今考えれば日常アニメを見下したもので、しかしよく考えるとどうして見下していたのかわからなくて、とにかく理由のない落胆だった。
 Kは
「『キルミーベイベー』ってアニメがマジでヤバいんですよ」
 と言った。
「どうヤバいの?」
 と僕は返す。
「主人公は普通の女子高生で、その親友が殺し屋って設定なんですけど。すっごい退屈なんスよ」
 ――退屈なものを人に勧めるなよ、と僕は思った。
「なんていうか、徹底して退屈なんですよね」
「冒頭で主人公が『わたし折部やすな、たぶん高校生!』って自己紹介するんですけど。『たぶん女子高生』なんですよ。すごくないですか?」
「友達のソーニャちゃんも『たぶん殺し屋』でしかなくって、全然ドラマチックなことなんて起きないんですよ。一応刺客とか出たりするんですけど」

 なんだったか忘れてしまったけれど、この辺りで他の面子に別の話題を振られて、この話はお流れになった。
 僕が家に帰ったあと、「キルミーベイベー」で検索をかけたのは、こんな支離滅裂な”オススメ”に心動かされたからなんかじゃ決してなくって、単に、モーニング娘。の新曲を聞きながらヘドバンしているようなこの男がハマる日常アニメとはどんなものか、という興味でしかなかった。
 けれど今考えると、このオススメは非常に的を射ていた、と思う。

ブログ始めました

いまさらって気もしますが。
とりあえず、暫くの間はキルミー批評でも書く予定。
プロフィール

とらいち

Author:とらいち
小説・漫画の感想ブログです。
フィギュア・ガンプラの写真なんかもあげるかも。
Twitterアカウントは@toragikoです。

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