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ゆゆ式の魅力の続き~あずまんが生まれのゆゆ式育ち~

ゆゆ式

 『ゆゆ式』で己の「キャラ」に一番自覚的なのはゆずこである。上の画像を見てほしい。左右を見比べるとわかるが、「ゆずこは本当は蟹なんて食べていない」のである!
 そもそも眼鏡をかけていない理由からして(本当は頭がいいのに)「頭が良さそうに見られるのが嫌だ」というのが面白い。自分をキャラとして認識しているし、本当のことより「どうすれば面白くなるか」ということが優先されているわけだ。

 日常系は、未だ私小説の呪縛から逃れることの出来ない純文学の先にいく概念だと思う。四コマでは、長ったらしい主人公のモノローグは出てこない。「私」の考えより場の空気が優先される。
 私小説は「私」の内面を徹底的に研究し、描写しようとした。しかし、本来的に西洋の「個人」という概念を自ら獲得したわけではない日本人には「空気」によるコミュニケーションの方が性に合っているのではないか。
 言ってみれば「空気」とは自意識の省略である。例えば「殴られる→怒る」という感情も、「殴られる→身の危険なので反撃しなければならない→興奮状態になったほうがいい」というプロセスの省略で、それと似たようなことがコミュニケーションの場で起こっていると考えるべきだろう。(この辺は伊藤計劃『ハーモニー』なんかで感じたこと。〉
 自分が本当はどう思っているか、ということよりも状況に対する反応としてのコミュニケーションである。コミニュケーションを、個人間での情報の伝達ではなく集団における同化の一環として捉えるわけだ。

 こうしたコミュニケーションの形態が、「四コマ」というコンテンツによって私たちの間に自然と浸透しているのではないか、と私は考えた。読者の存在を意識した「キャラ」としての振る舞いを、私たちは知らず知らずのうちに現実へと持ち込んではいないだろうか?
 K君に『ゆゆ式』を読ませてみたところ、「俺たちの会話を美少女化した感じ」との感想を頂いた。「あずまんが」世代の私たちは、日常がパッケージングされ、コンテンツになることを知った。この「コンテンツ化された日常」という現実の流れを反映したのが『ゆゆ式』だと考える。


追記 あずまんが大王のアンソロジー、『大阪万博』で篠房六郎が描いた漫画には、より顕著な形で「あずまんがごっこをする私たち」というものが描かれていた。こちらは画像はないが、是非読んでみてほしい。
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ゆゆ式の魅力~日常系とはなにか~

 さて、前回の記事では
・文学の役目の一つとして、「世界や自分をどう認識するか」ということを考えだし、広めることがあること
・現在、その広める方の役目は漫画などのサブカルチャーが担っていること
 を話した。

 今日は三上小又『ゆゆ式』を例に上げ、実際に我々がどのように四コマ漫画に意識を規定されているかについてはなそうと思う。
 『ゆゆ式』の画期的なところは、日常を四コマの形に切り出すのではなく、四コマの形式を意識した上で日常を送っていることである。彼女たちには「オチ」の概念があるし、例えばあえて沈黙による間を作ったりといったコマ割りの概念らしきものがある。

ゆゆ式2

 つまり、彼女たちは自分たちの世界を「四コマ」というフィクションとして捉えている。もちろん、これだけでは、四コマというフィクション世界におけるメタギャグにしかならないだろう。しかし、『ゆゆ式』を読んだ上で私たちが現実に交わす会話を考えてみると、時に『ゆゆ式』のように「読者」へ向けた漫才のようになっていることはないだろうか?

 『ゆゆ式』へと繋がる作品として、あずまきよひこ『あずまんが大王』が挙げられるだろう。あずまんがの世界では、キャラクターたちが「やらなきゃいけない気がして」、つまり作品の都合上、自分のキャラを守るために行動に出ることがある。この時、キャラクターたちを動かしているのは作者=神の意志である。ということはつまり、現実には起こり得ない出来事、フィクションでの出来事だ。
 
あずまんが

 しかし『ゆゆ式』では、キャラクターたちが自発的に自分の「キャラ」を守るために動く。『ゆゆ式』における会話は、現実に置き換えてみてもなんら遜色ない。
 こうした『ゆゆ式』のキャラ意識が『あずまんが大王』を下敷きにしているとしたとき、同じ意識変化が私たちにも起こっている、と考えられる。
 『あずまんが大王』によって(他にもTV文化とかいろいろあるだろう。要検証)「キャラ」という概念の存在を意識した私たちは、実際に「キャラ的」な行動を取るようになっていく。その過程を描いたのが『ゆゆ式』なのである。

 画像がでかいので一旦切ります。


追記 キャラ、と一口に言っているが、キャラクター化の概念についてもう少し補足が必要だろう。前回の記事でも取り上げた保坂和志『草の上の朝食』では、「未来」とは「現在の習慣」によって決定される、としている。つまり、いつも同じような言動を繰り返すことで、そこに「キャラ」が生まれ、その人の先の行動まで規定してしまう、ということだ。

一口アニメ感想「俺の彼女と幼馴染が修羅場過ぎる」

一話で切るかDVDボックス買うか迷い中。内容的には糞つまんないんだけど、これは研究する価値があるんじゃないか。富野さんのインタビュー集読んだ直後に見たせいか、「アニメばっかみてるやつの頭のなかはこんなになってるのか……」みたいなオタク批判的なことばっかりよぎってしまった。
まず、OPが主人公がほとんど登場せず女の子のおっぱいやスカートばっかりだったのがカオス。そしてやれやれ系主人公が可愛い女の子に巻き込まれてやれやれ。まともに直視出来なかった。
ただ、ガンダム見て戦争に思い馳せるのがどんだけ偉いのかって話で、少し下品な話になるけど僕だって夜にはエロ本見て抜いたりするわけだし、純粋な欲望のはけ口としてのアニメを批判することなんて何様だよ、とは言われると思う。
でも、「コンテンツが自意識を規定する」という僕の持論からするとこれに自意識規定された人間ってのは怖いなあ。

一口マンガ感想『魔人探偵脳噛ネウロ』

坂口安吾が「文学は人間を突き詰めていった結果の一つとして犯罪に行き当たることもある」といっていたけど、まさにそんな感じで反射的な「犯罪=悪」という先入観をとっぱらって可能性としての犯罪をつきつめた作品だった。
最終巻の読み切りもそうだけど、これも『暗殺教室』も「人間の社会が(教室も一つの社会の単位だろう)行き詰まったところに超越的な存在がきて、問題解決して去っていく」っていう話が多い気がする。暗殺教室はどういうオチが来るのかな。

一口アニメ感想「機動武闘伝Gガンダム」

壊滅的につまらなくて八話で切ってしまった……スレイヤーズみたいなファンタジー系の絵柄が印象的。
変身バングとか構成とか、一年単位の魔法少女ものっぽい感じだった。実際四クールだしね。一話一国づつファイトしていくのとか。
一気見したらつまんないと感じたけど、子どもなんて一週間したら内容忘れちゃうし(失礼)毎週新鮮な気持ちで見たら面白いのかもしれない。大人が一気見してつまらないから糞アニメ、ってのは暴論だとは思う。
DG細胞関連の話とか東方不敗だけかいつまんで見たい。

K君が一晩でやってくれました

 このブログでも何度か話題にしたK君が、キルミーベイベーをカットアップした曲をつくったらしいので紹介しますー。

Agiri Magic
https://soundcloud.com/go_go_ma/agiri-magic

カットミーベイベー
https://soundcloud.com/go_go_ma/c2mnpkd5jbx2

キルミーベイベーの魅力~上級編・日常系とはなにか~

 なんだか、記事を書くごとにクオリティーが下がっている気がする。一番言いたいことを初めに言ってしまったので、当然といえば当然だが。ここまでのことは、自分でもある程度責任と自信を持って書いてきた。一応、論拠といえるものも提示してきたつもり。だけどここからは、思うまま妄言に近いことを書こうと思う。

 まず、今までキルミーベイベーについていろいろと考察をしてきた。けれど人によっては「たかが四コマ漫画じゃん。まじめに考えて何か意味あるの?」と思うかもしれない。なので今日は、四コマ漫画やその批評が社会にどう役に立っているかについて考えたい。役に立つ、というのが言い過ぎなら社会との関わり方、と言っても良い。

 まず、結論から言うと「四コマ漫画は現代の文学である。そして文学とは我々の認識を規定するものである」ということになる。かなり突飛なのは自覚しているが、私はそう思う。これからその根拠を説明していこう。
 
 まず、小説について話をしたい。小説と自意識の関係の話だ。自意識とはなにかというと、「自分が何者であり、社会に対してどのような役割を果たすか」という認識のことである。現在、我々が当たり前のように思っているこの考えは、実は近代以前には、少なくとも現在のような形では存在しなかった。それを生み出したのは哲学であり、それを人々の間に浸透させたのが近代小説である。そもそも頭の中の思考を言葉にする(お腹すいた、という想念ではなく『お腹すいた』という言葉を思い浮かべる)という習慣が、黙読の習慣によって生まれたという話もあるくらいだ。
 また、日本人の「私」という意識の誕生には私小説が大きく関わってくる。市民革命によって自ら「個人」というものを獲得せず、独自の哲学研究も進めてこなかった日本人は、西洋の近代小説によって「個人」という意識を輸入したのだ。
 このように、文学というのは単に「本面白いwww」というものではなく、人の意識の在り方、すなわち社会の在り方さえも規定してしまう学問なのだ。その辺を人事の皆さんにもわかっていただきたい。

 さて、それでは現在の我々の意識を規定しているもの、とはなんだろうか?いわゆる「純文学」だろうか?しかし、我々の中に純文学を読んで育った者がどれだけいるか?純文学を読んだことのないものは、近代的自我を持ち得ないか?そんなことはないだろう。我々は身の回りの様々なコンテンツを通じて、先人たちが培ってきた認識を受け取っている。その中の一つが漫画などのサブカルチャーだ。純文学が無意味だ、と言っているのではない。サブカルチャーはメインカルチャーによって”開発”された認識を一般に広める役目があるのだ、と個人的には思っている。「事件」・「物語」の否定や人間のキャラクター化を描いた日常系の元祖といえる『草の上の朝食』は一九九〇年の小説だ。

今日はここまで。これ、キルミーベイベー論に帰って来られるんだろうか。

ガンダム00感想~「撃ちたくないんだー!」について~

 さて、サジの主人公性についての話だが、これは刹那の主人公性の話でもある。

 個人的な話になるが、僕はガンダムの「撃ちたくないんだー」とか言いつつバンバン撃つ主人公が苦手だった。撃ちたくなければ撃たなければいい、とさえ思っていた。
 しかし00(特に一期)では、刹那は紛争根絶のため、迷いなく戦う。迷うことは市民であるサジに託されている。このW主人公制はうまいと思った。ファーストガンダムが富野の学生運動経験を元にしているという話からすれば、活動家とノンポリといったところだろうか。
 しかし二期では、ノンポリであったはずのサジは争いに巻き込まれていく。これは「撃ちたくない」と思いつつ、撃たざるを得ないという従来のガンダム主人公の役割だといえる。サジは、「戦いたくない」「自分には関係ない」と言い続けた結果、カタロンの人々を犠牲にしてしまう。撃ちたくないからといって本当に撃たなければどうなるのか、ということが突きつけられている。そしてサジは自らオーライザーに乗る、という選択をする。

 一方、刹那はどうだろうか?僕は、「俺がガンダムだ」という台詞にはそれほど違和感は覚えなかった。むしろ、刹那のガンダムを信仰する姿勢のほうが気になった。それは根本的に神を信じて戦っていた少年兵時代となにも変わらないのではないか?と思ったのだ。現にソレスタル・ビーイングとしての戦いを通じて多くの人の生命を奪い続けている。サジは戦わないが為に犠牲を生む。刹那は戦うが為に犠牲を生む。進むも地獄、止まるも地獄である。
 しかし、二期になると刹那は「俺がガンダムだ」とは言わなくなる。そのかわりに「俺は変わる」と盛んに口にするようになる。そして二期のラストでイノベーター、劇場版でELSに本当に変わってしまう。「俺は変わる」というのは、ガンダム=神に導かれるままに戦ってきた自分の存在を改めて見つめなおしている、ということだと思われる。そして劇場版の最後ではマリナ・イスマイールと同じ立場に立ち、争いを否定するようになる。この迷うサジと迷わない刹那の変化の対比は非常に美しい。

 劇場版についての話もしよう。二期で刹那はアロウズというファーストにおける連邦、あるいはZのティターンズのような「地球軍」とでもいうべき存在を倒す。しかし00ではさらにその先、地球が統一された後にまで話が進んでいく。地球が統一されたのだから、話がその外にいくのは至極当然といえる。
 だから、僕としては宇宙人が登場することも、もっといえばそれが戦いではなく会話による和解であることも、言葉の通じない(人間の延長ではない)本物のストレンジャーと和解する方法が「花」であったこともすんなり受け入れられた。
 メタル刹那と揶揄されるラストについても同様である。そもそも、二期のラストでは「ソレスタル・ビーイングはいずれ裁きを受ける」という話がなくなってしまう。紛争を根絶するために戦い続け、その結果人間でないものになるところまで行ってしまう、というのは妥当な落とし所のように感じた。「おばあちゃんになったマリナ・イスマイールがかわいそう」と言っている人は、少々肉欲に囚われすぎなのではないだろうか。マリナが若返ればよかった、と言っている人はその後、二人が子作りすることでも望んでいるとしか思えない。あの二人は「争いを否定し、平和を望む」という同じ目的を志した同志であり、その意味で、言ってしまえばマリナの聖人さは最初からメタル刹那のような、人間を超越したものだったと言える。その二人が生きてお互いの意志を確認しあえる、というのは肉体の状態など関係ないハッピーエンドではないか。
 むしろ苦言を呈するならば、「花」やメタル刹那は奇抜な発想ではなく、むしろ皆が納得できる最大公約数的なオチでしかなかったことだろう。ガンダムを越えた先を描くはずだったのに、一昔前のSFのようなありふれたオチになってしまっている。一口に「ガンダムの先」と言っても僕にはとても想像できないし、それはガンダムを越えてSF界の新たな一歩にさえなるような、難しいものかもしれないが、そこまで到達して欲しかったというのは高望みが過ぎるだろうか。


 ここまで書いたのは非ガノタとしての意見である。00に対する批判として(特に劇場版などで)「これはガンダムではない」というものをよく目にする。そう言われればその通りなのかもしれないが、僕は素直にこの作品は面白い、と思った。誤解を恐れずに言ってしまえば、「ガンダムじゃないから駄作!」と言っている人は、新しい価値観を受け入れ、人の気持ちがわかるニュータイプというものを描き続けてきた富野のガンダムをも否定することになるのではないだろうか。
 好き勝手言ってるのでお叱りがあれば甘んじて受け入れます。なにかあればコメントかツイッターにでも。

ガンダム00感想~現実の世界からガンダムの世界へ~

 先日、お正月特番でガンダム00一挙放送をやってたので見てみた。この記事にはその感想を書こうと思う。予め断っておくと、ガンダムはファースト三部作と新約Zを見ただけなので、あんまり詳しくはない。でも00が面白かったから遡って見てみたいなーとは思ってます。

ガンダム00の一番の特徴は、やっぱり一期と二期の構成の違いだと思う。ネットなどで評判を見てみても、「00は一期まで」という意見が多かった。でも僕は、多少の問題をはらみながらも、やっぱり二期は必要だったと思う。
 そもそも、ガンダム00の一期とはどういう役割を持っていたか。僕は、現在我々の暮らす「普通の世界」が「ガンダム的な世界」に移行していく過程のように感じた。例を挙げると、ソレスタル・ビーイングが持ち込むまでこの世界にはGN粒子(=ミノフスキー粒子)が存在しない。となるとモビルスーツの有用性も低くなるはずだが、その辺は既存の兵器(イナクト、フラッグは戦闘機、ティエレンは戦車)の発展系として描くことで設定の辻褄を併せている。また、イノベーター(=ニュータイプ)もラストまで出てこないし、テレパシーを使えるのも超兵(=強化人間)であるアレルヤとソーマだけである。なにより、この世界では地球が一つにまとまっておらず、(三つにまで統一されてはいるが)国同士が紛争を続けている。
 つまり、ガンダム00とは、一期で我々の住むこの世界がガンダム的な世界になるまでを、二期でガンダム的な世界を、そして劇場版でガンダムの先の世界を描いたのではないだろうか?

 もちろん、二期には批判されて然るべき点はいくつかある。まず、「ガンダム的な」世界を描くはず(前述のことが正しければ、だが)だったのに、アロウズという悪と正義のソレスタル・ビーイングという単純な善悪構造になってしまっていることだ。一期では、それぞれの陣営がそれぞれの正義をぶつけあっていて、それが物語に深みを出していた。もちろん、連邦とジオンの争いが東西冷戦を下敷きにしていて、今の時代にそれが合わないというのもわかるのだが。
 また、二期になると恋愛要素が増えてきて、登場人物の戦う理由が非常に矮小化されたものになってしまっている。一期はティエリアが「君はガンダムマイスターに相応しくない」などと言い出す度にイライラしていたものだが、二期では「相応しくないって言ってくれー!」と懇願したくなった。


しかし一期から二期への変化で特筆すべきことは、サジの扱いの変化であろう。一期では一般市民であったサジは、二期では争いに巻き込まれ、ソレスタル・ビーイングのメンバーとして戦うことになる。2ちゃんなどで「二期のサジは存在する意味がわからん」などと言われているのも目にした。しかし僕はこのサジこそ二期の主人公であると思う。※一応補足しておくと、二期でサジがソレスタル・ビーイング入りしたことで場面が艦内ばかりになり、市井の人の目線がなくなったことは善悪二極化に拍車をかけている、とは僕も思う。

とりあえずここまで。

キルミーベイベーの魅力~中級の続き・消えた殺し屋学校~

 前回までのまとめ。
・キルミーベイベーの原作には「物語」が存在しない。しかしだからこそ受け取り手の側が自由に物語を作ることが出来る。
・アニメでは原作を受けて見事に物語としてのキルミーベイベーが描かれていた。
・アンソロジーでもまた、原作を受けて様々な”実は”のキルミーの物語が描かれていた。

 とは言え、それはギャグ漫画全般に言えることではないか?作者がそれを意識しているとは限らないのではないか?という意見もあるだろう。しかし僕としては作者は意識してやっているのではないか、と思う。その根拠をここに述べる。

 ここでまたK君にご登場願おう。それは、いつものようにキルミーベイベーの話をしている時だった。彼は「そういえば、俺思ったんですけど」と言った。
やすなって実はソーニャの殺し屋の師匠なんじゃないですかね?そう考えると、やすながやけに頑丈なことの説明がつくんですよ。師匠っていうか、教官とか試験官みたいな?モブたちも、ソーニャがナイフ出しても騒がないじゃないですか。あそこって実は殺し屋養成学校で……」
 僕はその話を聞いた時、正直「こいつは何を言っているんだ」と思った。テクスト論的な、「こうも読める」みたいな話をしたって、意味は無いじゃないか、と。

 しかしその後、僕はアンソロジーを買い、その中の初期設定集を見た。すると、驚いたことにキルミーベイベーは初めは殺し屋養成学校を舞台とした話だったと書いてあるではないか!登場人物は主人公である殺し屋のソーニャ、忍者あぎり、拳法の使い手没キャラ、そして殺し屋先生の四人である。やすなは影も形も存在しない。その後の初期設定改で普通の学校の殺し屋クラブが舞台になり、そこに紛れ込んでしまう一般人の主人公・やすなが登場する。
 これを知ってから読むと、今のキルミーベイベーも殺し屋学校を舞台にしていると読んで読めないことはないのだ、ということがわかる。初期設定からキャラクターが減っていることからもわかるように、作者は設定を出来るだけオミットして、「ソーニャは殺し屋である」と「そのソーニャとやすなが漫才をする」という笑いどころの中核の部分だけを残して「キルミーベイベー」を作っている。そのまわりには本来、さまざまな設定があったはずで、「やすなが一般人のふりをした殺し屋の教官」だというのもあながちありえない話ではないのだ。

 考えてみれば、僕たちはキルミーベイベーのことについて何も知らない。やすなとソーニャがどのように出会ったのかも、組織とはなんなのかも、「きがえて!ソーニャちゃん」のようになぜ女子高生をやっているのかもわからない。それを補完したい、という気持ちになるのは当たり前ではないか。そのことを(少なくとも、芳文社の編集は)認めているからこそ、このような構成のアンソロジーになったのではないかと思う。

 また、カヅホ先生は一部界隈でリョナラーとしても有名である。

トモイジメ寄生

 こんな独特なセンスを持つ先生が、単にのほほんとした日常を書くわけないじゃないか!

キルミーベイベーの魅力~中級編・アンソロジー~

   「大体、変装ならもうしているだろう」「え、何の変装?」「女子高生」「あー」

 さて、初級編でも少し触れたが、アンソロジーの話である。はっきり言ってこれはヤバい。怖い。怖すぎる。キルミーベイベーの日常は、いろいろなものを捨象した上で成り立っている不安定なものである、ということは以前にも述べたが、これはその捨象したものを取り戻した時、キルミーベイベーがどうなるか、ということを雄弁に語っている。それぞれの作品に、その作者がキルミーから読み取った”実は”が表れている。

 とりあえず軽く内容を紹介しておこう。初めにあるのがカラーの寄稿イラスト。きれーい。次がカヅホ先生のカラーイラスト。きれーい。次がグッズ紹介やキャラクター診断などの企画ページ。正直コレは微妙。そして次に来るのがアンソロジーコミックである。これがヤバい。その後カヅホ×黒田bb×大沖座談会、初期設定集と続く。この二つもいろいろ語りどころがあるので後で取り上げたいと思うが、とりあえずはコミック部分の話をしたい。

 まず、まったくもー助「きがえて!ソーニャちゃん」から見てみよう。簡単に言うと
やすな「ソーニャちゃん!メイドのコスプレしてよ!」
ソーニャ「いやだ」
やすな「じゃあ殺し屋っぽい格好とか」
ソーニャ「そんなことしたらターゲットにバレるだろ」
やすな「そっか!じゃあ変装してよ!ハイ、鼻メガネ!」
 という原作っぽい(?)ギャグ調の作品である。しかし最後に出てくるのが最上部に書いた台詞だ。一見なんでもない言葉に見えるが、よく考えてみるとちょっと怖い。ソーニャが女子高生をやっているのは、”実は”怪しまれない為の変装にすぎないのだ、と言っているのだ。確かに、殺し屋であるソーニャがどうして女子高生をやっているのか、というのは原作でも一切語られていない。考えてみると謎である。
 しかしまあ、これはそれほど大した謎ではない。重要なのは、「こんな小さな謎さえ、原作では周到に除外されている」ということである。この辺は初期設定集の話で詳しく述べる。

 ぺちょ「日常風景」。基本的にギャグなのだが、台詞回しがどこか切ない。これも「きがえて!ソーニャちゃん」のように、原作でありそうでなかったギリギリの線を突いている。
「いいか?私は殺し屋だ。自分がいつ死ぬかもわからない。お前の愛情には応えられないんだ。」
「だいたいもし私がターゲットになっても平気で仕事受けるの!?」

 次に袴田めら「苺とチョコレート」。通学中、交通事故を目撃したやすなは、改めて「死」ということについて考える。考えてみれば横にいるソーニャは殺し屋で、もしかしたらあの事故もソーニャが関わっているかもしれない。けれど、どこか「死」に惹かれる気持ちもあるやすなは笑ってソーニャの隣を歩く。これはやすながソーニャにつきまとう理由についての”実は”だ。

 ハトポポコ「晴れた空にキルミー」。
やすな「私も殺ししてみたい!」
ソーニャ「おお、いいじゃないか」
(中略)
やすな「さっきの私を見てどう思った?」
ソーニャ「バカだと思った」
やすな「それが普段の君の姿なんだよッソーニャ君ッ」
 やすながソーニャを心配しつつも、内心ちょっとバカにしているという”実は”。ラジオで田村がおバカ認定されたことが思い出される

 小島アジコ「キルミーキルミーベイベー」。これは誰もが一度は考えたであろう、「”実は”殺し屋というのがソーニャの脳内設定だったら?」という話である。
「そーいやさー。私のクラスに自称殺し屋の女子がいた話、したっけ?」
「何それ、中二病ってやつ?」
 という会話で始まるこの作品は全アンソロ中でも最も残酷な話だろう。原作には刺客が登場するので今となってはこの”実は”は死に設定になってしまったが、個人的には刺客回を省いてこう想像する余地を残してもよかったと思っている。


 そして今井哲也「いつまでふたりで」。「ソーニャちゃん!今日は『殺し屋じゃない人』ごっこをしよう!」で始まるこれは、ふざけながらもなんとかソーニャに殺し屋をやめて欲しい、と思っているやすなと、そんなやすなの気持ちを知りつつ殺し屋の自分を受け入れてもらえないことにどこか寂しさを感じるソーニャ、という物悲しい作品である。「ギャグ漫画の主人公が小説のような近代的自我を持つとどうなるか」という一種の悲劇性は興味深い。
 
 こうして見てみると、キルミーベイベーの世界が多くの”実は”を丁寧に取り除いた上で成り立っているのがわかる。だからこそ多くの”実は”が入り込む余地が生まれるのである。”実は”とは、「現実」と言い換えてもよい。極論すれば、日常系漫画には「リアリズム」と「近代的自我」という近代文学以降の二つの主要素が存在しない、とさえ言えるかもしれない。※要検証

 全アンソロについて感想書こうと思ったけど、流石に長くなりそうなのでこの辺で。そしてやっぱり後半に続く。次回には「本当に作者が意識してそういうふうに作ってるの?」という、この記事の根拠みたいなものを書く予定。

キルミーベイベーの魅力~番外編・曲の魅力~

 この記事ではキルミーベイベーのOP・EDの魅力について語っていく。

「僕とキルミーの出会い」にも書いたように、僕にキルミーベイベーを教えてくれた男はHIPHOPが好きだった。キルミーベイベーのOP「キルミーのベイベー」を初めて聞いた時、僕は「あの男でもこういう電波アニメソング的なものも聞くのか」と思ったことを覚えている。
 しかし今考えるに、それは間違いだった。「キルミーのベイベー」は単に電波な曲ではなく、非常に考えられたHIPHOPソングだったのだ。

「キルミーのベイベー」を聞いた時、一番最初に思うのは「どしたのわさわさ」「なんでもなーみん」ってなんだよ、という事だと思う。けれど僕は彼からHIPHOPを聞かされていたりしたので、わさわさ=what'up?what'up?(どうしたどうした?)、ふぉりし=holy shit(やべえ!)であるということにはすぐに気づいた。調べてみるとなーみんもnah mean(you know what I meanの略。俺の言ってること、わかるだろ?)であることがわかった。この時点でかなりHIPHOPである。

 また、一番の「ホーミーに動じない!? 腹いせで吐息だー!」と二番の「広義なベストフレンド!? 流し目でどつくなー!!」という歌詞は、「腹いせでどつくなー!!」「流し目で吐息だー!」とすると意味が通じる。こうした、歌詞の配列をごちゃ混ぜにすることをカットアップといい、これもHIPHOPなどでよく使われる技法である。

 ここまでは確定的な事実として、制作側が考えてやっていることだといえるだろう。OPの作曲編曲はEXPO(山口優+松前公高)、作詞は藤本功一とくればこの程度の仕込みは当然ともいえる。

 ここからは個人的な妄想であるが、「ほーみーに動じない!?」という歌詞に着目したい。ほーみーはHIPHOP
的な文脈から考えればhomie(友達)という意味だと思われるが、hold me(抱きしめて)とのダブルミーニングになっているとも考えられる。そうすると「ほーみーに動じない!?」の意味がわかりやすくなるからである。
 さて、homieは「友達」という意味であるが、語源はhomesやhomeboyにあると言われる。単に友達というより、地元の奴ら、といったニュアンスを含む。しかし、果たしてソーニャは「地元の友達」だろうか?

 キルミーベイベーのアニメでは、やすなが「ソーニャちゃん、○○しようよ!」と話しかけ、それに対しソーニャが「○○?聞いたことがあるな」……というきっかけからなにかが始まることが多い。ロシアからやってきた殺し屋であるソーニャは、餅つきも凧揚げもやったことがない。一種のストレンジャーなのである。そのソーニャにやすなは「ねえねえ~」とあたかも昔からの友達であるかのように馴れ馴れしく接する。これは一種の下町交流なのではないだろうか。その結果、ソーニャはなーみん(私の言ってること、わかるだろ?)と言うほどにここに馴染んでいくのである。


 また、EDも秀逸である。OPがロシア民謡的な曲調でありながら、やすなっぽいお馬鹿な歌詞なのに対し、エンディングでは小鼓を使い日本的な雰囲気を出しながら、ソーニャの気持ちを歌っている。これは「好きよあなたが、殺したいほど」という歌詞からはっきりわかるだろう。
 原作やアニメ本編では「秘密」にされている「ホントの気持ち」が「好き」である、ということ(ソーニャがやすなのことが好きだと明言してしまうこと)には賛否両論あると思われる。前の記事でも述べたようにキルミーベイベーからは日常を乱すものは全て除外されており、もちろん恋愛もそれに含まれる。読者が自分の中で「ソーニャはホントはやすなのことが好きなんだろう」という「物語」を作ることは自由だが、公式からのアンサーとしてこれを出したことには反感を抱く者もいると思う。

「いつまでふたりでいるのかな」「どこまでふたりでいるのかな」「たのしいじかんがいいのかな」「おとなになるまでいいのかな」という歌詞は、キルミーベイベーにおける日常がいつまで、どこまで続くかわからないものだということをはっきりと指摘している。ひと月を1話にまとめ、12話で1年を描いたことにしてもそうで、永遠に続くキルミーベイベーの世界の終りを暗示しているのがアニメの特徴なのである。
 やすなとソーニャにしても永遠に女子高生でいるわけにはいかないわけで、その際には(どのような形であれ)二人の関係に変化が訪れるだろう。そのときに、ソーニャからやすなへの「好き」という感情がないとしたら悲しすぎるではないか。

 結論としては、「キルミーのベイベー」は日常の楽しさ、素晴らしさを、HIPHOPの底流にある”地元のダチ”という考え方から肯定しており、「ふたりのきもちのほんとのひみつ」はその日常が実は壊れやすいものである、という一種のタブーを作品本編ではなくEDの歌詞という微妙な立場から仄めかしているのだ、といえるだろう。


プロフィール

とらいち

Author:とらいち
小説・漫画の感想ブログです。
フィギュア・ガンプラの写真なんかもあげるかも。
Twitterアカウントは@toragikoです。

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