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ゆゆ式の魅力の続き~あずまんが生まれのゆゆ式育ち~

ゆゆ式

 『ゆゆ式』で己の「キャラ」に一番自覚的なのはゆずこである。上の画像を見てほしい。左右を見比べるとわかるが、「ゆずこは本当は蟹なんて食べていない」のである!
 そもそも眼鏡をかけていない理由からして(本当は頭がいいのに)「頭が良さそうに見られるのが嫌だ」というのが面白い。自分をキャラとして認識しているし、本当のことより「どうすれば面白くなるか」ということが優先されているわけだ。

 日常系は、未だ私小説の呪縛から逃れることの出来ない純文学の先にいく概念だと思う。四コマでは、長ったらしい主人公のモノローグは出てこない。「私」の考えより場の空気が優先される。
 私小説は「私」の内面を徹底的に研究し、描写しようとした。しかし、本来的に西洋の「個人」という概念を自ら獲得したわけではない日本人には「空気」によるコミュニケーションの方が性に合っているのではないか。
 言ってみれば「空気」とは自意識の省略である。例えば「殴られる→怒る」という感情も、「殴られる→身の危険なので反撃しなければならない→興奮状態になったほうがいい」というプロセスの省略で、それと似たようなことがコミュニケーションの場で起こっていると考えるべきだろう。(この辺は伊藤計劃『ハーモニー』なんかで感じたこと。〉
 自分が本当はどう思っているか、ということよりも状況に対する反応としてのコミュニケーションである。コミニュケーションを、個人間での情報の伝達ではなく集団における同化の一環として捉えるわけだ。

 こうしたコミュニケーションの形態が、「四コマ」というコンテンツによって私たちの間に自然と浸透しているのではないか、と私は考えた。読者の存在を意識した「キャラ」としての振る舞いを、私たちは知らず知らずのうちに現実へと持ち込んではいないだろうか?
 K君に『ゆゆ式』を読ませてみたところ、「俺たちの会話を美少女化した感じ」との感想を頂いた。「あずまんが」世代の私たちは、日常がパッケージングされ、コンテンツになることを知った。この「コンテンツ化された日常」という現実の流れを反映したのが『ゆゆ式』だと考える。


追記 あずまんが大王のアンソロジー、『大阪万博』で篠房六郎が描いた漫画には、より顕著な形で「あずまんがごっこをする私たち」というものが描かれていた。こちらは画像はないが、是非読んでみてほしい。
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