スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

劇場版まどマギ感想――作者の権利について――


 いつもだったらツイッターでちょこちょこ呟いていればそれで満足してしまうのでこのブログは放置状態にあったわけだけど、いろいろ思うところがありすぎて消化不良を起こしたのでこうして言語化を試みている。

 初めにちょこっと言い訳すると、まどマギはTV版はちゃんと見たけど批評とか制作側のインタビューとかを追いかけているわけではないのでガチのファンからすると的はずれなことも多いかもしれない。あしからず。

 劇場版まどマギについては、前述の通り消化不良を起こしている。作画とか演出のここがすごい、みたいな話をするときりがないので一番きになったことだけ。僕はこの作品の一番凄いところは「二次創作的な想像力」を否定してるところなんじゃないか、と思った。

 この話の論点となるのは序盤の「平和な魔法少女たちの世界」である。初めてみるはずのあの世界に、僕たちは既視感を覚える。あれ、これってどこかでみたことがあるぞ、と。杏子とさやかが同棲してたり、シャルロッテとマミさんが仲よさげだったり。あの世界は二次創作的なものの逆輸入によって成り立っている、と感じた。

 杏子とさやかは100歩譲ってTV版でもカップリングだとしても、マミとシャルロッテの絡みはグッズ展開から逆輸入されたものである、と虚淵が明言している。(パンフレット)

 そもそもの基底にある「平和な魔法少女の世界」というのもいかにも二次創作的である。問題はこの世界が、主人公であるほむらによって「まどかの決意の否定」だとして明確に拒絶されていることだ。平和な物語を想像するのは簡単だけど、そうじゃないからこの話には意味があるんですよ、と。

 まどか☆マギカという作品は、いわば「魔法少女もの」といわれる全般の作品、魔法少女のイデアの裏側を描いた作品だ。戦ったら傷つく、奇跡には代償がある、という魔法少女の裏側を描いている。それを見て絶賛したファンが、そこからまた表側である普通の魔法少女モノとしてのまどマギ二次創作を再生産し続けることの意味、というのは前のキルミーベイベー批評と同じである。ただ、キルミーベイベーが徹底的に表であり続けることで裏側を想起させるのとは逆に、まどマギは先に裏を描くことで表を想起させようとする。我々はそこにある物語を読むだけでなく、そこからあったはずの無数の物語を読む(むしろ作る)という行為をこそ楽しむわけだ。テクスト論的な「読むごとに違う物語が現れる」という考え方に近いかもしれない。

 個人的にはTV版の最後は、普通の魔法少女モノへと繋がったのだ、と思っていた。魔獣という人間を襲う怪物と戦う存在である魔法少女、最後に待っているのは救済、使い魔ポジであるQBとそれなりに仲のよさそうなほむら。まどマギ本編のどこか未来都市じみた見滝原から、高層ビルが立ち並ぶ現実としての見滝原へ。けれど、劇場版という形でもう一度まどマギの物語が紡がれることになったとき、再びこの作品は魔法少女の裏側に回る必要性に迫られたわけだ。その際、一度我々の中に形作られた”表側”の物語をどう処理するか、という問題が生まれた。そして、結果としてそれは叩き潰されることになったというわけだ。

 そもそも、ループものの利点の一つとして二次創作の容易さ、というのは確実にあった。同時期のループもの作品であるシュタインズ・ゲートの比翼恋理のダーリンなどはその利点を最大限に活かしたものであったはずだ。しかしこの作品では、「酷薄な世界の裏側にありえたかもしれない平和な世界」を勝手に作り出すことを明確に拒否している。世界はこの残酷な世界ただひとつであり、他には存在しない、と。

 そして、最後のほむらの悪魔化。あくまで個人的な意見に過ぎないが、あのオチこそ物語を作者の側に取り戻そうとする意志の結晶だ、と僕は思った。

 そもそも、QBが黒幕だ、という時点でTV版の「まどかの決意によって生まれた新しい世界」の否定である。彼女の犠牲によって魔法少女魔女化システムは瓦解し、「あなたたちとの関係も結構険悪だったし」と過去形で語られるように、魔法少女とインキュベーターは協力関係になったのだから。ほむらの悪魔化も同様で、「まどかの愛した世界を守り続ける」というTV版のほむらの決意の明確な否定だ。「ほむらの意志はまどかを守りたいで一貫している」という意見もあるだろうが、それでもTV版はほむらの「世界を守る」という決意に至るまでの過程を描いた物語であるのではないか、と僕は思う。

 これほどまでに「公式」の物語を否定する話を描くのは、二次創作には不可能なのではないか、と思う。もちろん、物理的に不可能なわけではないけれど……仮にまどマギの二次創作としてこの話が存在するとしたら、それはどこか歪なものになってしまうだろう。二次創作とはあくまで「公式」の物語を受容した上で存在するものだからだ。

 以前、このブログに書いたキルミーベイベー論では、テクスト論的な考えに基づいて、二次創作全盛、一億総作家時代においての日常系作品の優位性について述べた。TV版のまどマギは、日常系でこそないもののそれと同じく、受け手の想像力を喚起し、それぞれに新しい物語を紡がせる力を持っていたと思う。
 無責任に言ってしまえば、それがゼロ年代という時代であり、その決算としてのまどか☆マギカという作品の在り方だったわけだ。しかしこの劇場版まどか☆マギカはさらにその一歩先を行く、作者の持つ絶対的な力を再認識させる作品として在るのではないだろうか。
 
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

とらいち

Author:とらいち
小説・漫画の感想ブログです。
フィギュア・ガンプラの写真なんかもあげるかも。
Twitterアカウントは@toragikoです。

最新記事
最新コメント
月別アーカイブ
カテゴリ
カウンター
Twitter
検索フォーム
リンク
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。