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キルミーベイベーの魅力~初級編~

 さて、キルミーベイベーの魅力とはなんだろうか。とても一度では語りきれないが、とりあえず今日は初級編ということでキルミーを見たことがない人向けに書いてみようと思う。
 とはいえ、ここで語ることは僕のキルミーの見方の基本となっているので、熱心なキルミストの皆さんにもぜひ見ていって欲しい。

 キルミーベイベーは「殺し屋」の出てくる「日常アニメ」である。殺し屋と日常、この二つがキルミーを語るに当たって重要になってくる。簡単にあらすじを説明すれば、普通の女子高生、折部やすながなぜか普通に高校に通っている殺し屋の女の子、ソーニャにちょっかいを出してはドツかれる、という漫才アニメだ。登場人物はやすなとソーニャ、あとソーニャの同僚の忍者あぎりの三人しかいない。

 実は僕は日常アニメというのがニガテだった。"大きな物語"が大好きで、コナンで黒の組織絡みの回だけあとで見るような物語信者だった。だから、そもそも物語が存在しない日常系アニメのなにが面白いのかよくわからなかった。そして、「殺し屋」である。ソーニャは殺し屋という設定だが、実際には殺し屋らしいことはほとんどしない。たまーに他の組織からの刺客が登場するくらいである。これでは設定の持ち腐れじゃないか。初めはそう思った。

 しかし、最終回を見てその評価は大きく変わった。最終回では、それまでずっとただどつき漫才を続けていたやすなが、「殺し屋なんてやってたら、一緒に遊べなくなっちゃうよ!」と初めてシリアスな面を見せる。この回は結構評判が高いし、実際僕も面白いと思った。しかし、実はこの回はアニメオリジナルなのだという。原作では、やすなはソーニャを止めることが出来ずに、ソーニャは(ギャグ的にではあるが)仕事をやり遂げてしまう。

 最終回を見終わった僕は、ピクシブや2chなんかで絵やSSを見てみた。そこには、ほのぼのとした日常を描いたアニメに反して、その裏側にある非日常、あるいは残酷さなんかを描いたものが多かった。例えば、"実は"ソーニャがやすなを殺す為にやってきた、とか"実は"やすなは別の組織の殺し屋でソーニャを殺してしまう、といった類のものだ。

 あまりにも安穏とした日常の裏側に、僕たちはそうした非日常的なものを見てしまう。そして、原作の日常は、そうした"怖い"ものを意識的に徹底して省いたものの上に成り立っている。そのことに気づいたのだ。事実、公式アンソロジーではそうした、原作から捨象されている"怖い"ものがあったらどうなるか、といったテーマでまとめられている(アンソロについては別の記事でも取り上げる予定)

 原作から捨象されている要素は、"怖い"要素だけではない。原作ではソーニャは一度もやすなに対してデレたことはない。恋愛、という要素もまた、物語の時間を進めるものであり、その意味で日常の均衡を壊してしまうものなのだ。"人間関係の変化”こそ物語の核である、という考え方もあるくらいである。もちろん、二次創作では”怖い”ものの他に、恋愛要素を全面に押し出したものも多かった。

 日常アニメは、少なくともキルミーベイベーは、物語の力を否定しているのではない。むしろその力は受け手である我々に、豊かに託されているのだ。
※これは、インターネットの普及による"一億総作家時代"の到来と無関係ではないと思うが、この辺りは慎重な議論が必要だろう。
 キルミーベイベーの物語性の無さは、むしろ受け手が物語を作り出すときの妨げとならないよう意識されたものなのだ。それがはっきりしたのがアニメにおける最終回である。

あの最終回は、そこまで比較的原作に忠実だったアニメ制作側が、「原作の物語らせる力」に負けてしまった瞬間だと僕は思った。

 しかしそれは敗北ではなく、キルミーベイベーの原作という種、特に「殺し屋」という設定の種が花を開いた瞬間だともいえるだろう。

長くなってきたので次に続きます。
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