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キルミーベイベーの魅力~上級編・日常系とはなにか~

 なんだか、記事を書くごとにクオリティーが下がっている気がする。一番言いたいことを初めに言ってしまったので、当然といえば当然だが。ここまでのことは、自分でもある程度責任と自信を持って書いてきた。一応、論拠といえるものも提示してきたつもり。だけどここからは、思うまま妄言に近いことを書こうと思う。

 まず、今までキルミーベイベーについていろいろと考察をしてきた。けれど人によっては「たかが四コマ漫画じゃん。まじめに考えて何か意味あるの?」と思うかもしれない。なので今日は、四コマ漫画やその批評が社会にどう役に立っているかについて考えたい。役に立つ、というのが言い過ぎなら社会との関わり方、と言っても良い。

 まず、結論から言うと「四コマ漫画は現代の文学である。そして文学とは我々の認識を規定するものである」ということになる。かなり突飛なのは自覚しているが、私はそう思う。これからその根拠を説明していこう。
 
 まず、小説について話をしたい。小説と自意識の関係の話だ。自意識とはなにかというと、「自分が何者であり、社会に対してどのような役割を果たすか」という認識のことである。現在、我々が当たり前のように思っているこの考えは、実は近代以前には、少なくとも現在のような形では存在しなかった。それを生み出したのは哲学であり、それを人々の間に浸透させたのが近代小説である。そもそも頭の中の思考を言葉にする(お腹すいた、という想念ではなく『お腹すいた』という言葉を思い浮かべる)という習慣が、黙読の習慣によって生まれたという話もあるくらいだ。
 また、日本人の「私」という意識の誕生には私小説が大きく関わってくる。市民革命によって自ら「個人」というものを獲得せず、独自の哲学研究も進めてこなかった日本人は、西洋の近代小説によって「個人」という意識を輸入したのだ。
 このように、文学というのは単に「本面白いwww」というものではなく、人の意識の在り方、すなわち社会の在り方さえも規定してしまう学問なのだ。その辺を人事の皆さんにもわかっていただきたい。

 さて、それでは現在の我々の意識を規定しているもの、とはなんだろうか?いわゆる「純文学」だろうか?しかし、我々の中に純文学を読んで育った者がどれだけいるか?純文学を読んだことのないものは、近代的自我を持ち得ないか?そんなことはないだろう。我々は身の回りの様々なコンテンツを通じて、先人たちが培ってきた認識を受け取っている。その中の一つが漫画などのサブカルチャーだ。純文学が無意味だ、と言っているのではない。サブカルチャーはメインカルチャーによって”開発”された認識を一般に広める役目があるのだ、と個人的には思っている。「事件」・「物語」の否定や人間のキャラクター化を描いた日常系の元祖といえる『草の上の朝食』は一九九〇年の小説だ。

今日はここまで。これ、キルミーベイベー論に帰って来られるんだろうか。

キルミーベイベーの魅力~中級の続き・消えた殺し屋学校~

 前回までのまとめ。
・キルミーベイベーの原作には「物語」が存在しない。しかしだからこそ受け取り手の側が自由に物語を作ることが出来る。
・アニメでは原作を受けて見事に物語としてのキルミーベイベーが描かれていた。
・アンソロジーでもまた、原作を受けて様々な”実は”のキルミーの物語が描かれていた。

 とは言え、それはギャグ漫画全般に言えることではないか?作者がそれを意識しているとは限らないのではないか?という意見もあるだろう。しかし僕としては作者は意識してやっているのではないか、と思う。その根拠をここに述べる。

 ここでまたK君にご登場願おう。それは、いつものようにキルミーベイベーの話をしている時だった。彼は「そういえば、俺思ったんですけど」と言った。
やすなって実はソーニャの殺し屋の師匠なんじゃないですかね?そう考えると、やすながやけに頑丈なことの説明がつくんですよ。師匠っていうか、教官とか試験官みたいな?モブたちも、ソーニャがナイフ出しても騒がないじゃないですか。あそこって実は殺し屋養成学校で……」
 僕はその話を聞いた時、正直「こいつは何を言っているんだ」と思った。テクスト論的な、「こうも読める」みたいな話をしたって、意味は無いじゃないか、と。

 しかしその後、僕はアンソロジーを買い、その中の初期設定集を見た。すると、驚いたことにキルミーベイベーは初めは殺し屋養成学校を舞台とした話だったと書いてあるではないか!登場人物は主人公である殺し屋のソーニャ、忍者あぎり、拳法の使い手没キャラ、そして殺し屋先生の四人である。やすなは影も形も存在しない。その後の初期設定改で普通の学校の殺し屋クラブが舞台になり、そこに紛れ込んでしまう一般人の主人公・やすなが登場する。
 これを知ってから読むと、今のキルミーベイベーも殺し屋学校を舞台にしていると読んで読めないことはないのだ、ということがわかる。初期設定からキャラクターが減っていることからもわかるように、作者は設定を出来るだけオミットして、「ソーニャは殺し屋である」と「そのソーニャとやすなが漫才をする」という笑いどころの中核の部分だけを残して「キルミーベイベー」を作っている。そのまわりには本来、さまざまな設定があったはずで、「やすなが一般人のふりをした殺し屋の教官」だというのもあながちありえない話ではないのだ。

 考えてみれば、僕たちはキルミーベイベーのことについて何も知らない。やすなとソーニャがどのように出会ったのかも、組織とはなんなのかも、「きがえて!ソーニャちゃん」のようになぜ女子高生をやっているのかもわからない。それを補完したい、という気持ちになるのは当たり前ではないか。そのことを(少なくとも、芳文社の編集は)認めているからこそ、このような構成のアンソロジーになったのではないかと思う。

 また、カヅホ先生は一部界隈でリョナラーとしても有名である。

トモイジメ寄生

 こんな独特なセンスを持つ先生が、単にのほほんとした日常を書くわけないじゃないか!

キルミーベイベーの魅力~中級編・アンソロジー~

   「大体、変装ならもうしているだろう」「え、何の変装?」「女子高生」「あー」

 さて、初級編でも少し触れたが、アンソロジーの話である。はっきり言ってこれはヤバい。怖い。怖すぎる。キルミーベイベーの日常は、いろいろなものを捨象した上で成り立っている不安定なものである、ということは以前にも述べたが、これはその捨象したものを取り戻した時、キルミーベイベーがどうなるか、ということを雄弁に語っている。それぞれの作品に、その作者がキルミーから読み取った”実は”が表れている。

 とりあえず軽く内容を紹介しておこう。初めにあるのがカラーの寄稿イラスト。きれーい。次がカヅホ先生のカラーイラスト。きれーい。次がグッズ紹介やキャラクター診断などの企画ページ。正直コレは微妙。そして次に来るのがアンソロジーコミックである。これがヤバい。その後カヅホ×黒田bb×大沖座談会、初期設定集と続く。この二つもいろいろ語りどころがあるので後で取り上げたいと思うが、とりあえずはコミック部分の話をしたい。

 まず、まったくもー助「きがえて!ソーニャちゃん」から見てみよう。簡単に言うと
やすな「ソーニャちゃん!メイドのコスプレしてよ!」
ソーニャ「いやだ」
やすな「じゃあ殺し屋っぽい格好とか」
ソーニャ「そんなことしたらターゲットにバレるだろ」
やすな「そっか!じゃあ変装してよ!ハイ、鼻メガネ!」
 という原作っぽい(?)ギャグ調の作品である。しかし最後に出てくるのが最上部に書いた台詞だ。一見なんでもない言葉に見えるが、よく考えてみるとちょっと怖い。ソーニャが女子高生をやっているのは、”実は”怪しまれない為の変装にすぎないのだ、と言っているのだ。確かに、殺し屋であるソーニャがどうして女子高生をやっているのか、というのは原作でも一切語られていない。考えてみると謎である。
 しかしまあ、これはそれほど大した謎ではない。重要なのは、「こんな小さな謎さえ、原作では周到に除外されている」ということである。この辺は初期設定集の話で詳しく述べる。

 ぺちょ「日常風景」。基本的にギャグなのだが、台詞回しがどこか切ない。これも「きがえて!ソーニャちゃん」のように、原作でありそうでなかったギリギリの線を突いている。
「いいか?私は殺し屋だ。自分がいつ死ぬかもわからない。お前の愛情には応えられないんだ。」
「だいたいもし私がターゲットになっても平気で仕事受けるの!?」

 次に袴田めら「苺とチョコレート」。通学中、交通事故を目撃したやすなは、改めて「死」ということについて考える。考えてみれば横にいるソーニャは殺し屋で、もしかしたらあの事故もソーニャが関わっているかもしれない。けれど、どこか「死」に惹かれる気持ちもあるやすなは笑ってソーニャの隣を歩く。これはやすながソーニャにつきまとう理由についての”実は”だ。

 ハトポポコ「晴れた空にキルミー」。
やすな「私も殺ししてみたい!」
ソーニャ「おお、いいじゃないか」
(中略)
やすな「さっきの私を見てどう思った?」
ソーニャ「バカだと思った」
やすな「それが普段の君の姿なんだよッソーニャ君ッ」
 やすながソーニャを心配しつつも、内心ちょっとバカにしているという”実は”。ラジオで田村がおバカ認定されたことが思い出される

 小島アジコ「キルミーキルミーベイベー」。これは誰もが一度は考えたであろう、「”実は”殺し屋というのがソーニャの脳内設定だったら?」という話である。
「そーいやさー。私のクラスに自称殺し屋の女子がいた話、したっけ?」
「何それ、中二病ってやつ?」
 という会話で始まるこの作品は全アンソロ中でも最も残酷な話だろう。原作には刺客が登場するので今となってはこの”実は”は死に設定になってしまったが、個人的には刺客回を省いてこう想像する余地を残してもよかったと思っている。


 そして今井哲也「いつまでふたりで」。「ソーニャちゃん!今日は『殺し屋じゃない人』ごっこをしよう!」で始まるこれは、ふざけながらもなんとかソーニャに殺し屋をやめて欲しい、と思っているやすなと、そんなやすなの気持ちを知りつつ殺し屋の自分を受け入れてもらえないことにどこか寂しさを感じるソーニャ、という物悲しい作品である。「ギャグ漫画の主人公が小説のような近代的自我を持つとどうなるか」という一種の悲劇性は興味深い。
 
 こうして見てみると、キルミーベイベーの世界が多くの”実は”を丁寧に取り除いた上で成り立っているのがわかる。だからこそ多くの”実は”が入り込む余地が生まれるのである。”実は”とは、「現実」と言い換えてもよい。極論すれば、日常系漫画には「リアリズム」と「近代的自我」という近代文学以降の二つの主要素が存在しない、とさえ言えるかもしれない。※要検証

 全アンソロについて感想書こうと思ったけど、流石に長くなりそうなのでこの辺で。そしてやっぱり後半に続く。次回には「本当に作者が意識してそういうふうに作ってるの?」という、この記事の根拠みたいなものを書く予定。

キルミーベイベーの魅力~番外編・曲の魅力~

 この記事ではキルミーベイベーのOP・EDの魅力について語っていく。

「僕とキルミーの出会い」にも書いたように、僕にキルミーベイベーを教えてくれた男はHIPHOPが好きだった。キルミーベイベーのOP「キルミーのベイベー」を初めて聞いた時、僕は「あの男でもこういう電波アニメソング的なものも聞くのか」と思ったことを覚えている。
 しかし今考えるに、それは間違いだった。「キルミーのベイベー」は単に電波な曲ではなく、非常に考えられたHIPHOPソングだったのだ。

「キルミーのベイベー」を聞いた時、一番最初に思うのは「どしたのわさわさ」「なんでもなーみん」ってなんだよ、という事だと思う。けれど僕は彼からHIPHOPを聞かされていたりしたので、わさわさ=what'up?what'up?(どうしたどうした?)、ふぉりし=holy shit(やべえ!)であるということにはすぐに気づいた。調べてみるとなーみんもnah mean(you know what I meanの略。俺の言ってること、わかるだろ?)であることがわかった。この時点でかなりHIPHOPである。

 また、一番の「ホーミーに動じない!? 腹いせで吐息だー!」と二番の「広義なベストフレンド!? 流し目でどつくなー!!」という歌詞は、「腹いせでどつくなー!!」「流し目で吐息だー!」とすると意味が通じる。こうした、歌詞の配列をごちゃ混ぜにすることをカットアップといい、これもHIPHOPなどでよく使われる技法である。

 ここまでは確定的な事実として、制作側が考えてやっていることだといえるだろう。OPの作曲編曲はEXPO(山口優+松前公高)、作詞は藤本功一とくればこの程度の仕込みは当然ともいえる。

 ここからは個人的な妄想であるが、「ほーみーに動じない!?」という歌詞に着目したい。ほーみーはHIPHOP
的な文脈から考えればhomie(友達)という意味だと思われるが、hold me(抱きしめて)とのダブルミーニングになっているとも考えられる。そうすると「ほーみーに動じない!?」の意味がわかりやすくなるからである。
 さて、homieは「友達」という意味であるが、語源はhomesやhomeboyにあると言われる。単に友達というより、地元の奴ら、といったニュアンスを含む。しかし、果たしてソーニャは「地元の友達」だろうか?

 キルミーベイベーのアニメでは、やすなが「ソーニャちゃん、○○しようよ!」と話しかけ、それに対しソーニャが「○○?聞いたことがあるな」……というきっかけからなにかが始まることが多い。ロシアからやってきた殺し屋であるソーニャは、餅つきも凧揚げもやったことがない。一種のストレンジャーなのである。そのソーニャにやすなは「ねえねえ~」とあたかも昔からの友達であるかのように馴れ馴れしく接する。これは一種の下町交流なのではないだろうか。その結果、ソーニャはなーみん(私の言ってること、わかるだろ?)と言うほどにここに馴染んでいくのである。


 また、EDも秀逸である。OPがロシア民謡的な曲調でありながら、やすなっぽいお馬鹿な歌詞なのに対し、エンディングでは小鼓を使い日本的な雰囲気を出しながら、ソーニャの気持ちを歌っている。これは「好きよあなたが、殺したいほど」という歌詞からはっきりわかるだろう。
 原作やアニメ本編では「秘密」にされている「ホントの気持ち」が「好き」である、ということ(ソーニャがやすなのことが好きだと明言してしまうこと)には賛否両論あると思われる。前の記事でも述べたようにキルミーベイベーからは日常を乱すものは全て除外されており、もちろん恋愛もそれに含まれる。読者が自分の中で「ソーニャはホントはやすなのことが好きなんだろう」という「物語」を作ることは自由だが、公式からのアンサーとしてこれを出したことには反感を抱く者もいると思う。

「いつまでふたりでいるのかな」「どこまでふたりでいるのかな」「たのしいじかんがいいのかな」「おとなになるまでいいのかな」という歌詞は、キルミーベイベーにおける日常がいつまで、どこまで続くかわからないものだということをはっきりと指摘している。ひと月を1話にまとめ、12話で1年を描いたことにしてもそうで、永遠に続くキルミーベイベーの世界の終りを暗示しているのがアニメの特徴なのである。
 やすなとソーニャにしても永遠に女子高生でいるわけにはいかないわけで、その際には(どのような形であれ)二人の関係に変化が訪れるだろう。そのときに、ソーニャからやすなへの「好き」という感情がないとしたら悲しすぎるではないか。

 結論としては、「キルミーのベイベー」は日常の楽しさ、素晴らしさを、HIPHOPの底流にある”地元のダチ”という考え方から肯定しており、「ふたりのきもちのほんとのひみつ」はその日常が実は壊れやすいものである、という一種のタブーを作品本編ではなくEDの歌詞という微妙な立場から仄めかしているのだ、といえるだろう。


キルミーベイベーの魅力~初級の続き・アニメの魅力編~

スゴいぞ山川監督!

 今回はキルミーベイベーのアニメの魅力について語っていく。前回の記事を簡単にまとめると

・キルミーベイベーの原作は意識して物語性を省いている。それによって読者が自分の中で物語を膨らませやすいようになっている
・キルミーベイベーのアニメはその原作の力に負け、最終回で物語ってしまっている

 ということだ。しかしこの作品を30分アニメにするにあたって、その決断は英断だったといえるだろう。この記事ではアニメ版キルミーベイベーに散見される物語性をあげていこうと思う。

 まず、第一話冒頭の「ぐーてんもーげん!わたし、折部やすな!たぶん高校生!」という台詞から考えてみたい。実はここにはかなりの情報が詰め込まれている。まず、この作品がやすなの一人称視点によるというものだということがわかる。アニメではモブキャラクターは(予算の兼ね合いもあるだろうが)棒人形で描かれている。これがやすなの認識だとすれば、やすなにとってソーニャ以外の人間はほぼ見えていないということに他ならない。これは原作の表紙にも言えることだ。
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 この緑一色の表紙絵は、二人しかいない世界を表している。そしてアニメでは、それがやすなの意識によるものだということが最初に提示されているのだ。
 また、「たぶん高校生」という部分であるが、「高校生」というキャラクターとしてのレッテルを、「たぶん」によって曖昧にしている。しかしやすなは高校生に違いない。本当に「たぶん」なのはソーニャが殺し屋である、という方ではないか?といったことも考えられる。

 また、キルミーベイベーはしばしば「30分は長かった」「5分アニメにすればよかった」と言われることがある。しかし僕は30分アニメにしたのは正解だったと思っている。

 まず、アニメでは最終話を除く12話が、春夏秋冬の季節ごとに――もっというなら、1話が作品内の1ヶ月になるように配置されているのも興味深い。だいたい、原作の3~4話をアニメの1話にまとめているのだが、そのとき季節ごとに並び替えているのだ。これにより、アニメには原作にはなかった「時間の流れ」が生まれている。

 また、しばしば「尺稼ぎ」であると非難される話の切れ間に挿入される一枚絵であるが、これは原作のヒド目のオチを和らげる役目を持っている。例えば、催眠ガスで眠ってしまったやすなを公園に放置する回にはおとまり会の絵を、やすなを汚いプールに突き落とす回には泉の女神ネタを、といった具合である。
 帰り道のシーンにしても同様で、例えばパペットの回ではソーニャがやすなの作ってきた人形の首をもぎ取ってしまう。4コマであればそこでオチ、で終りなのだが、時間の流れのあるアニメではそう上手く区切りがつけられず、ともすればソーニャを酷い奴だと感じてしまう。しかしその後の帰り道のシーンで、二人は仲良く一緒に帰っている。あまつさえやすなの手には修理された人形が握られているのだ。やすなが人形を修理する間、帰るのを待ってあげるソーニャを想像すると胸が暖かくなるではないか。

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 帰り道のシーンの暖かさは、このポスターに集約されている。こうしてみると、あたかもキルミーベイベーが「いろいろあるけど、帰り道は一緒だよ」に集約される作品であるかのようである。これをみて、帰り道のあのBGMを思い出す人も多いのではないだろうか。
 しかし、実は原作ではこの「一緒に帰る」シーンは影も形も存在しない。全くのアニメオリジナルなのである。キルミーベイベーのアニメは「オリジナル要素が少なく、比較的原作に忠実である」という評価がなされているが、実は作品の根幹から変えられているのだ。

 前回、キルミーベイベーの原作は「物語」を捨象した純粋な日常だけの作品であると述べた。しかし、あまりにも純粋すぎる「日常」だけの作品は逆にその日常性を感じることが難しくなる。原作を読んで読者が受け取るものは単にギャグ漫画としてのキルミーベイベーであろう。
 その原作に少しの物語性――時間の流れと言い換えても良い――を付け加えることによってよりその「日常性」を浮き彫りにさせたアニメは、やはり名作であると言わざるをえない。
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とらいち

Author:とらいち
小説・漫画の感想ブログです。
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