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劇場版まどマギ感想――作者の権利について――


 いつもだったらツイッターでちょこちょこ呟いていればそれで満足してしまうのでこのブログは放置状態にあったわけだけど、いろいろ思うところがありすぎて消化不良を起こしたのでこうして言語化を試みている。

 初めにちょこっと言い訳すると、まどマギはTV版はちゃんと見たけど批評とか制作側のインタビューとかを追いかけているわけではないのでガチのファンからすると的はずれなことも多いかもしれない。あしからず。

 劇場版まどマギについては、前述の通り消化不良を起こしている。作画とか演出のここがすごい、みたいな話をするときりがないので一番きになったことだけ。僕はこの作品の一番凄いところは「二次創作的な想像力」を否定してるところなんじゃないか、と思った。

 この話の論点となるのは序盤の「平和な魔法少女たちの世界」である。初めてみるはずのあの世界に、僕たちは既視感を覚える。あれ、これってどこかでみたことがあるぞ、と。杏子とさやかが同棲してたり、シャルロッテとマミさんが仲よさげだったり。あの世界は二次創作的なものの逆輸入によって成り立っている、と感じた。

 杏子とさやかは100歩譲ってTV版でもカップリングだとしても、マミとシャルロッテの絡みはグッズ展開から逆輸入されたものである、と虚淵が明言している。(パンフレット)

 そもそもの基底にある「平和な魔法少女の世界」というのもいかにも二次創作的である。問題はこの世界が、主人公であるほむらによって「まどかの決意の否定」だとして明確に拒絶されていることだ。平和な物語を想像するのは簡単だけど、そうじゃないからこの話には意味があるんですよ、と。

 まどか☆マギカという作品は、いわば「魔法少女もの」といわれる全般の作品、魔法少女のイデアの裏側を描いた作品だ。戦ったら傷つく、奇跡には代償がある、という魔法少女の裏側を描いている。それを見て絶賛したファンが、そこからまた表側である普通の魔法少女モノとしてのまどマギ二次創作を再生産し続けることの意味、というのは前のキルミーベイベー批評と同じである。ただ、キルミーベイベーが徹底的に表であり続けることで裏側を想起させるのとは逆に、まどマギは先に裏を描くことで表を想起させようとする。我々はそこにある物語を読むだけでなく、そこからあったはずの無数の物語を読む(むしろ作る)という行為をこそ楽しむわけだ。テクスト論的な「読むごとに違う物語が現れる」という考え方に近いかもしれない。

 個人的にはTV版の最後は、普通の魔法少女モノへと繋がったのだ、と思っていた。魔獣という人間を襲う怪物と戦う存在である魔法少女、最後に待っているのは救済、使い魔ポジであるQBとそれなりに仲のよさそうなほむら。まどマギ本編のどこか未来都市じみた見滝原から、高層ビルが立ち並ぶ現実としての見滝原へ。けれど、劇場版という形でもう一度まどマギの物語が紡がれることになったとき、再びこの作品は魔法少女の裏側に回る必要性に迫られたわけだ。その際、一度我々の中に形作られた”表側”の物語をどう処理するか、という問題が生まれた。そして、結果としてそれは叩き潰されることになったというわけだ。

 そもそも、ループものの利点の一つとして二次創作の容易さ、というのは確実にあった。同時期のループもの作品であるシュタインズ・ゲートの比翼恋理のダーリンなどはその利点を最大限に活かしたものであったはずだ。しかしこの作品では、「酷薄な世界の裏側にありえたかもしれない平和な世界」を勝手に作り出すことを明確に拒否している。世界はこの残酷な世界ただひとつであり、他には存在しない、と。

 そして、最後のほむらの悪魔化。あくまで個人的な意見に過ぎないが、あのオチこそ物語を作者の側に取り戻そうとする意志の結晶だ、と僕は思った。

 そもそも、QBが黒幕だ、という時点でTV版の「まどかの決意によって生まれた新しい世界」の否定である。彼女の犠牲によって魔法少女魔女化システムは瓦解し、「あなたたちとの関係も結構険悪だったし」と過去形で語られるように、魔法少女とインキュベーターは協力関係になったのだから。ほむらの悪魔化も同様で、「まどかの愛した世界を守り続ける」というTV版のほむらの決意の明確な否定だ。「ほむらの意志はまどかを守りたいで一貫している」という意見もあるだろうが、それでもTV版はほむらの「世界を守る」という決意に至るまでの過程を描いた物語であるのではないか、と僕は思う。

 これほどまでに「公式」の物語を否定する話を描くのは、二次創作には不可能なのではないか、と思う。もちろん、物理的に不可能なわけではないけれど……仮にまどマギの二次創作としてこの話が存在するとしたら、それはどこか歪なものになってしまうだろう。二次創作とはあくまで「公式」の物語を受容した上で存在するものだからだ。

 以前、このブログに書いたキルミーベイベー論では、テクスト論的な考えに基づいて、二次創作全盛、一億総作家時代においての日常系作品の優位性について述べた。TV版のまどマギは、日常系でこそないもののそれと同じく、受け手の想像力を喚起し、それぞれに新しい物語を紡がせる力を持っていたと思う。
 無責任に言ってしまえば、それがゼロ年代という時代であり、その決算としてのまどか☆マギカという作品の在り方だったわけだ。しかしこの劇場版まどか☆マギカはさらにその一歩先を行く、作者の持つ絶対的な力を再認識させる作品として在るのではないだろうか。
 

ゆゆ式の魅力の続き~あずまんが生まれのゆゆ式育ち~

ゆゆ式

 『ゆゆ式』で己の「キャラ」に一番自覚的なのはゆずこである。上の画像を見てほしい。左右を見比べるとわかるが、「ゆずこは本当は蟹なんて食べていない」のである!
 そもそも眼鏡をかけていない理由からして(本当は頭がいいのに)「頭が良さそうに見られるのが嫌だ」というのが面白い。自分をキャラとして認識しているし、本当のことより「どうすれば面白くなるか」ということが優先されているわけだ。

 日常系は、未だ私小説の呪縛から逃れることの出来ない純文学の先にいく概念だと思う。四コマでは、長ったらしい主人公のモノローグは出てこない。「私」の考えより場の空気が優先される。
 私小説は「私」の内面を徹底的に研究し、描写しようとした。しかし、本来的に西洋の「個人」という概念を自ら獲得したわけではない日本人には「空気」によるコミュニケーションの方が性に合っているのではないか。
 言ってみれば「空気」とは自意識の省略である。例えば「殴られる→怒る」という感情も、「殴られる→身の危険なので反撃しなければならない→興奮状態になったほうがいい」というプロセスの省略で、それと似たようなことがコミュニケーションの場で起こっていると考えるべきだろう。(この辺は伊藤計劃『ハーモニー』なんかで感じたこと。〉
 自分が本当はどう思っているか、ということよりも状況に対する反応としてのコミュニケーションである。コミニュケーションを、個人間での情報の伝達ではなく集団における同化の一環として捉えるわけだ。

 こうしたコミュニケーションの形態が、「四コマ」というコンテンツによって私たちの間に自然と浸透しているのではないか、と私は考えた。読者の存在を意識した「キャラ」としての振る舞いを、私たちは知らず知らずのうちに現実へと持ち込んではいないだろうか?
 K君に『ゆゆ式』を読ませてみたところ、「俺たちの会話を美少女化した感じ」との感想を頂いた。「あずまんが」世代の私たちは、日常がパッケージングされ、コンテンツになることを知った。この「コンテンツ化された日常」という現実の流れを反映したのが『ゆゆ式』だと考える。


追記 あずまんが大王のアンソロジー、『大阪万博』で篠房六郎が描いた漫画には、より顕著な形で「あずまんがごっこをする私たち」というものが描かれていた。こちらは画像はないが、是非読んでみてほしい。

ゆゆ式の魅力~日常系とはなにか~

 さて、前回の記事では
・文学の役目の一つとして、「世界や自分をどう認識するか」ということを考えだし、広めることがあること
・現在、その広める方の役目は漫画などのサブカルチャーが担っていること
 を話した。

 今日は三上小又『ゆゆ式』を例に上げ、実際に我々がどのように四コマ漫画に意識を規定されているかについてはなそうと思う。
 『ゆゆ式』の画期的なところは、日常を四コマの形に切り出すのではなく、四コマの形式を意識した上で日常を送っていることである。彼女たちには「オチ」の概念があるし、例えばあえて沈黙による間を作ったりといったコマ割りの概念らしきものがある。

ゆゆ式2

 つまり、彼女たちは自分たちの世界を「四コマ」というフィクションとして捉えている。もちろん、これだけでは、四コマというフィクション世界におけるメタギャグにしかならないだろう。しかし、『ゆゆ式』を読んだ上で私たちが現実に交わす会話を考えてみると、時に『ゆゆ式』のように「読者」へ向けた漫才のようになっていることはないだろうか?

 『ゆゆ式』へと繋がる作品として、あずまきよひこ『あずまんが大王』が挙げられるだろう。あずまんがの世界では、キャラクターたちが「やらなきゃいけない気がして」、つまり作品の都合上、自分のキャラを守るために行動に出ることがある。この時、キャラクターたちを動かしているのは作者=神の意志である。ということはつまり、現実には起こり得ない出来事、フィクションでの出来事だ。
 
あずまんが

 しかし『ゆゆ式』では、キャラクターたちが自発的に自分の「キャラ」を守るために動く。『ゆゆ式』における会話は、現実に置き換えてみてもなんら遜色ない。
 こうした『ゆゆ式』のキャラ意識が『あずまんが大王』を下敷きにしているとしたとき、同じ意識変化が私たちにも起こっている、と考えられる。
 『あずまんが大王』によって(他にもTV文化とかいろいろあるだろう。要検証)「キャラ」という概念の存在を意識した私たちは、実際に「キャラ的」な行動を取るようになっていく。その過程を描いたのが『ゆゆ式』なのである。

 画像がでかいので一旦切ります。


追記 キャラ、と一口に言っているが、キャラクター化の概念についてもう少し補足が必要だろう。前回の記事でも取り上げた保坂和志『草の上の朝食』では、「未来」とは「現在の習慣」によって決定される、としている。つまり、いつも同じような言動を繰り返すことで、そこに「キャラ」が生まれ、その人の先の行動まで規定してしまう、ということだ。

一口アニメ感想「俺の彼女と幼馴染が修羅場過ぎる」

一話で切るかDVDボックス買うか迷い中。内容的には糞つまんないんだけど、これは研究する価値があるんじゃないか。富野さんのインタビュー集読んだ直後に見たせいか、「アニメばっかみてるやつの頭のなかはこんなになってるのか……」みたいなオタク批判的なことばっかりよぎってしまった。
まず、OPが主人公がほとんど登場せず女の子のおっぱいやスカートばっかりだったのがカオス。そしてやれやれ系主人公が可愛い女の子に巻き込まれてやれやれ。まともに直視出来なかった。
ただ、ガンダム見て戦争に思い馳せるのがどんだけ偉いのかって話で、少し下品な話になるけど僕だって夜にはエロ本見て抜いたりするわけだし、純粋な欲望のはけ口としてのアニメを批判することなんて何様だよ、とは言われると思う。
でも、「コンテンツが自意識を規定する」という僕の持論からするとこれに自意識規定された人間ってのは怖いなあ。

一口マンガ感想『魔人探偵脳噛ネウロ』

坂口安吾が「文学は人間を突き詰めていった結果の一つとして犯罪に行き当たることもある」といっていたけど、まさにそんな感じで反射的な「犯罪=悪」という先入観をとっぱらって可能性としての犯罪をつきつめた作品だった。
最終巻の読み切りもそうだけど、これも『暗殺教室』も「人間の社会が(教室も一つの社会の単位だろう)行き詰まったところに超越的な存在がきて、問題解決して去っていく」っていう話が多い気がする。暗殺教室はどういうオチが来るのかな。
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Author:とらいち
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