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一口アニメ感想「機動武闘伝Gガンダム」

壊滅的につまらなくて八話で切ってしまった……スレイヤーズみたいなファンタジー系の絵柄が印象的。
変身バングとか構成とか、一年単位の魔法少女ものっぽい感じだった。実際四クールだしね。一話一国づつファイトしていくのとか。
一気見したらつまんないと感じたけど、子どもなんて一週間したら内容忘れちゃうし(失礼)毎週新鮮な気持ちで見たら面白いのかもしれない。大人が一気見してつまらないから糞アニメ、ってのは暴論だとは思う。
DG細胞関連の話とか東方不敗だけかいつまんで見たい。

K君が一晩でやってくれました

 このブログでも何度か話題にしたK君が、キルミーベイベーをカットアップした曲をつくったらしいので紹介しますー。

Agiri Magic
https://soundcloud.com/go_go_ma/agiri-magic

カットミーベイベー
https://soundcloud.com/go_go_ma/c2mnpkd5jbx2

キルミーベイベーの魅力~上級編・日常系とはなにか~

 なんだか、記事を書くごとにクオリティーが下がっている気がする。一番言いたいことを初めに言ってしまったので、当然といえば当然だが。ここまでのことは、自分でもある程度責任と自信を持って書いてきた。一応、論拠といえるものも提示してきたつもり。だけどここからは、思うまま妄言に近いことを書こうと思う。

 まず、今までキルミーベイベーについていろいろと考察をしてきた。けれど人によっては「たかが四コマ漫画じゃん。まじめに考えて何か意味あるの?」と思うかもしれない。なので今日は、四コマ漫画やその批評が社会にどう役に立っているかについて考えたい。役に立つ、というのが言い過ぎなら社会との関わり方、と言っても良い。

 まず、結論から言うと「四コマ漫画は現代の文学である。そして文学とは我々の認識を規定するものである」ということになる。かなり突飛なのは自覚しているが、私はそう思う。これからその根拠を説明していこう。
 
 まず、小説について話をしたい。小説と自意識の関係の話だ。自意識とはなにかというと、「自分が何者であり、社会に対してどのような役割を果たすか」という認識のことである。現在、我々が当たり前のように思っているこの考えは、実は近代以前には、少なくとも現在のような形では存在しなかった。それを生み出したのは哲学であり、それを人々の間に浸透させたのが近代小説である。そもそも頭の中の思考を言葉にする(お腹すいた、という想念ではなく『お腹すいた』という言葉を思い浮かべる)という習慣が、黙読の習慣によって生まれたという話もあるくらいだ。
 また、日本人の「私」という意識の誕生には私小説が大きく関わってくる。市民革命によって自ら「個人」というものを獲得せず、独自の哲学研究も進めてこなかった日本人は、西洋の近代小説によって「個人」という意識を輸入したのだ。
 このように、文学というのは単に「本面白いwww」というものではなく、人の意識の在り方、すなわち社会の在り方さえも規定してしまう学問なのだ。その辺を人事の皆さんにもわかっていただきたい。

 さて、それでは現在の我々の意識を規定しているもの、とはなんだろうか?いわゆる「純文学」だろうか?しかし、我々の中に純文学を読んで育った者がどれだけいるか?純文学を読んだことのないものは、近代的自我を持ち得ないか?そんなことはないだろう。我々は身の回りの様々なコンテンツを通じて、先人たちが培ってきた認識を受け取っている。その中の一つが漫画などのサブカルチャーだ。純文学が無意味だ、と言っているのではない。サブカルチャーはメインカルチャーによって”開発”された認識を一般に広める役目があるのだ、と個人的には思っている。「事件」・「物語」の否定や人間のキャラクター化を描いた日常系の元祖といえる『草の上の朝食』は一九九〇年の小説だ。

今日はここまで。これ、キルミーベイベー論に帰って来られるんだろうか。

ガンダム00感想~「撃ちたくないんだー!」について~

 さて、サジの主人公性についての話だが、これは刹那の主人公性の話でもある。

 個人的な話になるが、僕はガンダムの「撃ちたくないんだー」とか言いつつバンバン撃つ主人公が苦手だった。撃ちたくなければ撃たなければいい、とさえ思っていた。
 しかし00(特に一期)では、刹那は紛争根絶のため、迷いなく戦う。迷うことは市民であるサジに託されている。このW主人公制はうまいと思った。ファーストガンダムが富野の学生運動経験を元にしているという話からすれば、活動家とノンポリといったところだろうか。
 しかし二期では、ノンポリであったはずのサジは争いに巻き込まれていく。これは「撃ちたくない」と思いつつ、撃たざるを得ないという従来のガンダム主人公の役割だといえる。サジは、「戦いたくない」「自分には関係ない」と言い続けた結果、カタロンの人々を犠牲にしてしまう。撃ちたくないからといって本当に撃たなければどうなるのか、ということが突きつけられている。そしてサジは自らオーライザーに乗る、という選択をする。

 一方、刹那はどうだろうか?僕は、「俺がガンダムだ」という台詞にはそれほど違和感は覚えなかった。むしろ、刹那のガンダムを信仰する姿勢のほうが気になった。それは根本的に神を信じて戦っていた少年兵時代となにも変わらないのではないか?と思ったのだ。現にソレスタル・ビーイングとしての戦いを通じて多くの人の生命を奪い続けている。サジは戦わないが為に犠牲を生む。刹那は戦うが為に犠牲を生む。進むも地獄、止まるも地獄である。
 しかし、二期になると刹那は「俺がガンダムだ」とは言わなくなる。そのかわりに「俺は変わる」と盛んに口にするようになる。そして二期のラストでイノベーター、劇場版でELSに本当に変わってしまう。「俺は変わる」というのは、ガンダム=神に導かれるままに戦ってきた自分の存在を改めて見つめなおしている、ということだと思われる。そして劇場版の最後ではマリナ・イスマイールと同じ立場に立ち、争いを否定するようになる。この迷うサジと迷わない刹那の変化の対比は非常に美しい。

 劇場版についての話もしよう。二期で刹那はアロウズというファーストにおける連邦、あるいはZのティターンズのような「地球軍」とでもいうべき存在を倒す。しかし00ではさらにその先、地球が統一された後にまで話が進んでいく。地球が統一されたのだから、話がその外にいくのは至極当然といえる。
 だから、僕としては宇宙人が登場することも、もっといえばそれが戦いではなく会話による和解であることも、言葉の通じない(人間の延長ではない)本物のストレンジャーと和解する方法が「花」であったこともすんなり受け入れられた。
 メタル刹那と揶揄されるラストについても同様である。そもそも、二期のラストでは「ソレスタル・ビーイングはいずれ裁きを受ける」という話がなくなってしまう。紛争を根絶するために戦い続け、その結果人間でないものになるところまで行ってしまう、というのは妥当な落とし所のように感じた。「おばあちゃんになったマリナ・イスマイールがかわいそう」と言っている人は、少々肉欲に囚われすぎなのではないだろうか。マリナが若返ればよかった、と言っている人はその後、二人が子作りすることでも望んでいるとしか思えない。あの二人は「争いを否定し、平和を望む」という同じ目的を志した同志であり、その意味で、言ってしまえばマリナの聖人さは最初からメタル刹那のような、人間を超越したものだったと言える。その二人が生きてお互いの意志を確認しあえる、というのは肉体の状態など関係ないハッピーエンドではないか。
 むしろ苦言を呈するならば、「花」やメタル刹那は奇抜な発想ではなく、むしろ皆が納得できる最大公約数的なオチでしかなかったことだろう。ガンダムを越えた先を描くはずだったのに、一昔前のSFのようなありふれたオチになってしまっている。一口に「ガンダムの先」と言っても僕にはとても想像できないし、それはガンダムを越えてSF界の新たな一歩にさえなるような、難しいものかもしれないが、そこまで到達して欲しかったというのは高望みが過ぎるだろうか。


 ここまで書いたのは非ガノタとしての意見である。00に対する批判として(特に劇場版などで)「これはガンダムではない」というものをよく目にする。そう言われればその通りなのかもしれないが、僕は素直にこの作品は面白い、と思った。誤解を恐れずに言ってしまえば、「ガンダムじゃないから駄作!」と言っている人は、新しい価値観を受け入れ、人の気持ちがわかるニュータイプというものを描き続けてきた富野のガンダムをも否定することになるのではないだろうか。
 好き勝手言ってるのでお叱りがあれば甘んじて受け入れます。なにかあればコメントかツイッターにでも。

ガンダム00感想~現実の世界からガンダムの世界へ~

 先日、お正月特番でガンダム00一挙放送をやってたので見てみた。この記事にはその感想を書こうと思う。予め断っておくと、ガンダムはファースト三部作と新約Zを見ただけなので、あんまり詳しくはない。でも00が面白かったから遡って見てみたいなーとは思ってます。

ガンダム00の一番の特徴は、やっぱり一期と二期の構成の違いだと思う。ネットなどで評判を見てみても、「00は一期まで」という意見が多かった。でも僕は、多少の問題をはらみながらも、やっぱり二期は必要だったと思う。
 そもそも、ガンダム00の一期とはどういう役割を持っていたか。僕は、現在我々の暮らす「普通の世界」が「ガンダム的な世界」に移行していく過程のように感じた。例を挙げると、ソレスタル・ビーイングが持ち込むまでこの世界にはGN粒子(=ミノフスキー粒子)が存在しない。となるとモビルスーツの有用性も低くなるはずだが、その辺は既存の兵器(イナクト、フラッグは戦闘機、ティエレンは戦車)の発展系として描くことで設定の辻褄を併せている。また、イノベーター(=ニュータイプ)もラストまで出てこないし、テレパシーを使えるのも超兵(=強化人間)であるアレルヤとソーマだけである。なにより、この世界では地球が一つにまとまっておらず、(三つにまで統一されてはいるが)国同士が紛争を続けている。
 つまり、ガンダム00とは、一期で我々の住むこの世界がガンダム的な世界になるまでを、二期でガンダム的な世界を、そして劇場版でガンダムの先の世界を描いたのではないだろうか?

 もちろん、二期には批判されて然るべき点はいくつかある。まず、「ガンダム的な」世界を描くはず(前述のことが正しければ、だが)だったのに、アロウズという悪と正義のソレスタル・ビーイングという単純な善悪構造になってしまっていることだ。一期では、それぞれの陣営がそれぞれの正義をぶつけあっていて、それが物語に深みを出していた。もちろん、連邦とジオンの争いが東西冷戦を下敷きにしていて、今の時代にそれが合わないというのもわかるのだが。
 また、二期になると恋愛要素が増えてきて、登場人物の戦う理由が非常に矮小化されたものになってしまっている。一期はティエリアが「君はガンダムマイスターに相応しくない」などと言い出す度にイライラしていたものだが、二期では「相応しくないって言ってくれー!」と懇願したくなった。


しかし一期から二期への変化で特筆すべきことは、サジの扱いの変化であろう。一期では一般市民であったサジは、二期では争いに巻き込まれ、ソレスタル・ビーイングのメンバーとして戦うことになる。2ちゃんなどで「二期のサジは存在する意味がわからん」などと言われているのも目にした。しかし僕はこのサジこそ二期の主人公であると思う。※一応補足しておくと、二期でサジがソレスタル・ビーイング入りしたことで場面が艦内ばかりになり、市井の人の目線がなくなったことは善悪二極化に拍車をかけている、とは僕も思う。

とりあえずここまで。

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とらいち

Author:とらいち
小説・漫画の感想ブログです。
フィギュア・ガンプラの写真なんかもあげるかも。
Twitterアカウントは@toragikoです。

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